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律法主義から解放されているのだから、律法を、生きるためのガイドラインとする

★キリスト教信仰にとって、最も基本的で重要なことを再確認致します。キリスト教で「救い」と語る場合、最終的な意味は、言葉を絞って言いますと「世の終わり」の時に設定されている「最後の審判」の時に「無罪とされる」ことです。この時「無罪とされた者」達が「永遠の命」を与えられ「神の国」を相続します。★「最後の審判」の時に「無罪とされる」根拠は「その人が律法を完全に守った」ということです。この時重要なのは「キリスト者は、主イェスにおいて、既に完全に律法を守った者と見なされている」ということです。これが、驚くべき「信仰義認」の「恵み」なのです。★使徒パウロが一部のユダヤ人キリスト者との間で戦ったのが、この「律法を完全に守る」という点です。何故なら、一部のユダヤ人キリスト者達が「救われるためには、割礼を受けることが必要である」と主張したからです。このように、「救われるためには、律法を守ることが必要である」という考え方を「律法主義」と呼びます。★キリスト教会において、この「律法主義」を退け、「信仰義認」を強調するあまり、一部のキリスト者の中に、期せずして、あたかも「救いを受け取ったキリスト者には律法は不要である」というような思いが根づいてしまいました。★そこで、確認します。「律法」は「神の国の倫理」ですから「救われるために必要なのではなく、救われた者のために必要なのです」。つまり、キリスト者は「信仰義認」の「恵み」により「既に、神の国の住人」とされているのですから「神の国の倫理(律法)を生きる」のです。
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