「空の空、空の空、いっさいは空である」ならどうするのか?④
[01]神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。
[02]わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか。
[05]わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。
★この詩篇の作者を「創造論的肯定思考」の人とすれば、人生の難題に直面し、解決が得られず「自分の魂」が「うなだれ、思いみだれた時」、「わが魂よ、何ゆえわたしのうちに…」と自問自答しています。しかし、同時に「神よ」と呼びかける相手(存在)を持っていることがわかります。ですから「創造論的肯定思考」の人は、絶望と思える時でも「神の御手の中にある意味」を求めて「自分の魂」に対して「神を待ち望め」と語りかけ得るのです。(続く)
「空の空、空の空、いっさいは空である」ならどうするのか?③
「空の空、空の空、いっさいは空である」ならどうするのか?②
[06]朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。
★この言葉に対して「言外の言」─「二つともに悪い」を読み取る解釈があります。もしかしたら、蒔いた種の全てが実を結ばないかもしれないけれども、明日に向かって種を蒔けと「コヘレト」は語っているのだと。この読み取り方を「実存的肯定思考」と呼ぶ事にします。★次に、主イェスの言葉です。マルコ4章26~28節(抜粋)です。
[26~28]「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。/夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。/地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。★この「地に種をまく」比喩は「創造主は被造世界を摂理的に支配しておられる」という信仰を前提しています。この信仰を敢えて「創造論的肯定思考」と名づければ、ローマ8:28は、この「被造世界に対する創造主の摂理的支配」を確信しているからこそ語れるのです。(続く)