牧師のページ

「契約」の前提は自立した一個の人格

★私たちは、旧約聖書の「約」も新約聖書の「約」も共に「契約」を意味することを知っています。しかし、大切なのその次です。このことは、創造主と人間を含む被造物とが「契約」を結んでいる、「契約を通して結びついている」ということを示しています。★ここから更に大切なことが分かります。創造主と人間とは異質な存在であり、その異質な存在同士が関係を結ぶ時、契約が用いられるという伝達(啓示)です。ですから、ざっくりとした表現ですが、キリスト教を背景に持つ国々では「契約」が非常に重要な位置を占めます。★この視点から日本を見てみますと「契約概念」が大変希薄であると思わざるを得ません。別の言い方をすれば、異質な存在同士が関係を結ぼうとする時「血縁や地縁」に代表されるように「縁」が立ちはだかるのです。しかも「契約」に取って代わるような事柄はありません。むしろ「郷に入っては郷に従え」という言葉に示されているように、異質な存在同士が関係を結ぼうとする時、縁に基づいた「内」は、何らかの意味で「外」が「内」に「同質化」することを要求します。私には、この無言の要求が、日本の精神性の土壌の中に根強く存在するように思われます。★「契約によって結びつく」ということは「人間味を欠いた関係だ」と理解されがちですが、その理解の中に真理契機を一部聞き取るとしても、「契約によって結びつく」と言う時、「人間を一個の自立した人格として扱う」という前提があることを理解しておきたいと思います。

「可能(積極)思考」を位置づける

★今朝は「可能(積極)思考」について考えたいと思います。「私たちには無限の可能性がある」。私自身もこの言葉に触れた当初、その真理契機に心を踊らせた時期がありました。ところが、その言葉から一歩引いて過ごすうちに、この言葉をキリスト教信仰の中でどのように位置づけたら良いのかを考えるようになりました。もう少し丁寧に語れば、「可能思考」をキリスト者が語る事とキリスト者ではない人達が語る事とは何が同じで、何が異なるのかという問いです。★もちろん、正解を得たというわけではないのですが、一つの気づきを与えられました。一般に「可能(積極)思考」とは、ある目的と結びつき、その結びついた目的に到達させるように、人が思考を機能させようとすることと言えます。このことをふまえて、この機能は「応答関係の中で働く」という視点で考えてみます。そうしますと、この思考機能が「日本の将来」とか「人間(自分)の夢」と結びつけば、人は、それらに応答する形で「私たちには無限の可能性がある」と語ることになります。★これに対して私は、この思考機能は、本来創造主(の語られる言葉)との関係の中で働く応答機能ではないかと考えるのです。つまり「被造物である人間」は「創造主の口から出る言葉によって生きる」という応答関係性の中で、です。ですから、この思考機能を創造主との関係性から切り離してしまうと、即座に「人間の夢や希望」に応答し、究極「人間の欲望」そのものに応答するように機能してしまうのではないかと考えるのです。★キリスト者は、創造主との関係性の外に「可能(積極)思考」を置くことはできないのではないかと思います。

「キボコク」を支えるものを考える

★先週の根田氏のお話の中で、KGK(キリスト者学生会)のメンバー達は先の国会開催時、国会議事堂前に集まり「祈った」とお伝えくださいました。この学生達は省略名「キボコク」のメンバーで、その名称が意味するのは、国会において多数を占める政党による安全保障法制が強引に採決されようとする状況の中でも「希望を告白しよう」という信仰的な表明です。★このキリスト者学生達がどのような根拠に立って「キリスト者はどんな時でも希望を告白できる」と考えておられたのか、私は確認してはいませんが、大変教えられました。★私自身、1983年に東京基督神学校に入学し、最終学年の時に「聖書神学」に出会い、神学的な表現で言えば、創造主と被造物である人間は契約を通して結びついており、被造物である人間は、創造から終末(創造の完成)という(遠大な)歴史的展開の中に置かれていること、また同時に、この被造世界を創造主より委託されており、創造の完成に至るまで創造主の御旨に従って正しく管理する責任を与えられ所持しているという「歴史的な視点」を学びました。しかし、この視点が自覚的な言葉として現実化されたのは、恥ずかしい限りですが、ここ数年のことであります。★より正確に言えば、主イェスによる贖罪は、創造主ご自身が開始された歴史を創造主ご自身が完成され、その時に登場する神の国に住まう神の民を集めるためであり、その神の国の登場は、今の被造世界の全てを白紙にしてしまう形ではないのだ、という神の国理解が明確になったこともです。★この歴史的な視点に立てば、歴史の真の支配者は、歴史を開始され、維持し、完成へと導かれる創造主ご自身であるのです。ですからキリスト者は、どのような歴史展開の中に置かれようとも、希望を持つことができるのです。

愛の具体的な例示としての律法

★律法問答として有名な次の箇所をまず読みます。(34)さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。(35)そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、(36)「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。(37)イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。(38)これがいちばん大切な、第一のいましめである。(39)第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。(40)これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。★この箇所を読みつつ、私たちは続いてどのように応答するでしょうか?多くの方々は、使徒パウロの言葉を思い起こすのではないでしょうか。(14)律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。そして、コリント人への第一の手紙第13章に至るかもしれません。★しかし、今朝お伝えしたいのは、旧約聖書への道筋です。問答を通して発せられた主イェスの言葉が伝えているのは、旧約聖書の律法には「主なる神様を愛するための具体的な行為」が記されているのであり、「隣人を愛するための具体的な行為」が教えられているという理解です。★この種の言葉を聞きますと、「律法主義に逆戻り?!」と思われるかもしれませんが、そうではありません。救済の視点から言えば、キリスト者とは、主イェスに於いて律法を完全に遂行してしまった者なのです。そして、律法の視点から言えば、キリスト者とは、創造主から委託された被造世界の管理を、創造主の意図である律法に添って果す位置に新生して再度立たされている者なのです。★例えば、具体的な愛の指針として「申命記」を読むことは、正しい意味で謙遜なキリスト者を生み出します。
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