牧師のページ

既に義とされているがゆえに、義に生きる

★3月の教会学校は、山上の説教を学びました。山上の説教が伝える一番最後の主イェスの言葉は、以下の言葉です。
[24]それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
[25]雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
[26]また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
[27]雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
★主イェスの強調点は明確です。教えの言葉を聞いて「行うかどうか」であります。キリスト者の場合は、主イェスの言葉を「真理」と理解していますから、「真理を生きるかどうか」と言えます。あるいは、主イェスを「主」と呼んでいますから、「従順に従うかどうか」とも言えます。言葉の言い換えはどうであれ、求められていることは「聞いて行う」という切り離せない二つの行為です。★そして、キリスト者の場合は、「義と認めてもらうための実践」ではなく、「既に義とされているがゆえにの実践」です。

「神の国」に入るために必要な「神の義」

★主イェスが語られた「神の国」についての言及をマタイによる福音書から抽出します。①6章33節「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」②12章28節「しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」③19章24節「また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい。」④21章31節「‥‥イエスは言われた、『よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる』。」★②の場合は、「神の国=神の支配」と解釈してよいと思います。③と④の場合は、終末に到来するであろう神の国のことと解釈出来ます。★それでは①の場合はどうでしょうか?恐らくどちらとも決めがたく両方に解釈できます。そこで、宣教開始の時に語られた言葉を思い起こします。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ(マルコ1:15)」です。「神の国」と「悔い改め」が同時に語られています。キリスト者であれば「悔い改め」が「罪」と関係していると分かります。そこからもう一歩前進すれば、「罪」が「神の義」と関係していることが分かります。★このことから「神の国」の到来を求める者は、同時に「神の義」を持っていなければ「神の国」に入ることが出来ないことがわかるのです。★「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。(マタイ5:17)。」この御言葉を語られた主イェスからその「神の義」をいただくのが信仰義認です。

「怒る」ことについて

★聖書の中から「怒り」に関する御言葉を拾い出してみました。★先ずは知恵文学が浮かびます。①[詩篇37篇08節]怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。この御言葉からは、「怒りや憤り」が「悪を行う」入口であることがわかります。②[箴言12章16節]愚かな人は、すぐに怒りをあらわす、しかし賢い人は、はずかしめをも気にとめない。この御言葉からは、「怒り」が「愚かな人」の人格的特徴の1つであることがわかります。③[箴言15章1節]柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす。この御言葉からは、転用的に理解しますが、「怒りや憤り」を治めるためには「柔らかい言葉」が有効であることがわかります。★新約聖書はどうでしょうか。④[エペソ4章31節]すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。この御言葉からは、「怒りや憤り」は捨て去るべきものであることが分かります。⑤[ガラテヤ5章19~21節]肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。この御言葉からは、「怒りや憤りに生き続ける者」は「神の国をつぐことがない」とまで言われていることが確認できます。★以上から「怒り」の問題は厄介かつ重要であることが確認できます。キリスト者の場合、解決は「御霊の実」となります。ですから、「怒り」の傍らに即「福音」を置きましょう!

わたしのうちに生きておられるのは…

★洗礼者ヨハネの示した「与えられた使命に徹する姿勢」について記した聖書箇所があります。(26)彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」(27)ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。(28)あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。(29)花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。(30)あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。★この箇所からわかりますように、洗礼者ヨハネは、「キリスト」を指し示す使命に徹していました。「あの方(=キリスト・イエス)は盛ん」にならなければならないし、逆に、自分は「衰えなければ」ならないのです。★この姿勢に対して、洗礼者ヨハネの位置と類似した位置に立つ働き人が「自分が盛んになることによって、あの方(=キリスト・イエス)が盛んになるのだ」という考え方を持つ場合があります。「どこがおかしいのか?」と問われた場合、簡単に論ずることはできないのですが、何かが少し違うように思えます。★「あの方(=キリスト・イエス)が盛んになる」ことを目指す生き方の中に雑音が入り込むとしたら、雑音の核にあるのは、恐らく「自分(の罪)」でしょう。多くの場合、外側の姿はそのまま内側の姿の反映です。「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」とはパウロの言葉ですが、働き人に限らず、キリスト者の場合は、この言葉の到達度に比例した姿が外側に現れてくるのだと思います。キリスト者は、内住してくださる御霊に信頼するのです。
RapidWeaver Icon

Made in RapidWeaver