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信仰義認と聖化

★ガラテヤ教会のキリスト者に向けて語られたパウロの言葉にこうあります。「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。」「あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。」これらのパウロの言葉は、律法行為の実行によって義とされるという異端的教えに惑わされている人たちへの叱責の言葉です。★更にこう続きます。「あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」聞いての通り、信仰義認が力説されています。ある人たちにとっては、「救いは信じて受け取るだけでよい」というこの単純さがかえって「つまずき」になることを示しています。★行い義認に立つ人の特徴は、「見える形の行為が『救い』の確信を支える」という理解です。これに対して信仰義認に立つキリスト者は、「見える形の行為が『聖化』の確信を支える」と理解します。確かに両者共に、律法の命じる行いを自分自身が実行できた時、心には満足と安心が与えられます。しかし、実行できない時、行い義認に立つ人は、不確かな救いをなんとかしなければなりません。これに対して信仰義認に立つキリスト者は、「自分が、完全に聖くなくても、完全に義とされている」ことを知っています。ですから律法を生きる勇気を与えられるのです。

神の口から出る一つ一つの言が必要

★主イエスが旧約聖書から引用された言葉で、いつでも心に留めておきたい言葉の一つはこれです。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」。誤解を畏れずに、この言葉の語る内容を二分すれば、人間は肉の領域と霊(魂)の領域との二つの領域で命を持って生きている存在なのだと言えます。★もちろん、肉の命のためにはどうしても「パン」が必要です。パンを食べなければ、最終的に人間は死んでしまいます。そのことと類比的に言えば、霊的な命が生きるためには、どうしても「神の口から出る一つ一つの言」が必要なのだ、となります。★このことを確認して、箴言第13章1節です。三つの翻訳を全て引用します。「口語訳:知恵ある子は父の教訓をきく、あざける者は、懲らしめをきかない」。「新共同訳:子は父の諭しによって知恵を得る。不遜な者は叱責に聞き従わない」。「新改訳:知恵ある子は父の訓戒に従い、あざけるものは叱責を聞かない。」★ここで言われている「父」とは、もちろん父親のことです。しかし、そのままキリスト者にとっての父なる神と置き換えても、同じメッセージを聞くことができます。神の子供とされたキリスト者は、父なる神の口から出る「教訓・諭し・訓戒・懲らしめ・叱責」に聞き従うことこそが、霊的な命を生かすことになるのです。★聖書を開き、父なる神様からの「教訓・諭し・訓戒・懲らしめ・叱責」を聴こうとする姿勢は、私たちキリスト者の霊的な命を確実に生かします。

これまで以上に知恵のある人を目指して

★箴言第12章の18節と25節の言葉を聴き取りましょう。(18)つるぎをもって刺すように、みだりに言葉を出す者がある、しかし知恵ある人の舌は人をいやす。(25)心に憂いがあればその人をかがませる、しかし親切な言葉はその人を喜ばせる。★「知恵とは知識の用い方である」という簡単な定義に立ちます。そうしますと、18節は、言葉の持つ力を否定的に使わないように知恵を持て、という箴言です。相手に“ある知識”を語る場合、語るその知識が、相手の心の中でどのような影響力を持つのかを事前に考える必要があるのです。そこまで考えずに語る場合、語った知識(言葉)が、あたかもナイフのように相手の心を突き刺さす場合があるのです。ですから、知識を語る前に、そこまで考え至ることができるなら、まさに知恵があると言えます。★続いて25節。こちらは、言葉の持つ力を肯定的に使う知恵を持て、という箴言です。箴言にある通り、心の憂いは、確実に、身体的な領域にまで影響を及ぼします。しかし、知恵のある者は、相手のために、知識(言葉)の持つ力を積極的に用いるのです。知識の内容そのものが、相手の心を癒すことができ、心に喜びを溢れさせることができるのです。★否定的にではなく、肯定的に知識を用いるとは、まさに“その知識”が必要とされる場面で、その知識が口をついて出てくるということです。そのためには、どうしても日々練習が必要です。それは、スポーツ選手が、一瞬で勝負が決まる、まさにその瞬間の為に練習が必要なのと同じです。これまで以上に知恵のある人となる練習を、今日から始めませんか?
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