牧師のページ

「神の国」に入るために既に与えられている準備

★パウロがテサロニケ教会のキリスト者達に送った第二の手紙の内容から引用します。(1:04)‥わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。(05)これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。(06)すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。(07)それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。★このパウロの言葉から二つのことを聴き取ることが出来ます。第一に、キリスト者は、神の国にふさわしい者となるように、地上の命にあって、忍耐と信仰を働かせて向き合うべき、人為的な迫害や患難を通らされる、ということです。この意味では、キリスト者は神の国のために苦しむのです。しかし、第二に、キリスト者に迫害や患難をもたらす側は、主イェスの再臨される時、患難という報酬を受け取ることになる、ということです。★同じ手紙の中で、パウロは語ります。「(3:05)どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせて下さるように」。聞いての通り、神の国にふさわしいとは「神の愛」と「キリストの忍耐」を持つキリスト者に成長することです。このことを可能にしてくださるために、既に、神の第三位格の御霊が与えられています。キリスト者として、成長の方向を定めましょう!

神を冒瀆する言葉なのか、それとも本当にそうなのか

★主イェスと律法学者やパリサイ人たちとの会話です。(51)よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」。主イェスのこの言葉に対して、(52)ユダヤ人たちが言った、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今わかった。アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それだのに、あなたは、わたしの言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろうと、言われる。(53)…彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」。★「わたしの言葉を守る者はいつまでも死を見ることがない」という言葉により、主イェスは「悪霊つき」と判断されています。★続く段落で主イェスは「自分をだれと思っているのか」という問いに答えます。それが「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。この言葉に対しては「悪霊つき」という判断ではなく、「石をイエスに投げつけようとした」のです。★これは「石打の刑」を実行しようとしたことで、主イェスの口から神を冒瀆する言葉が語られたことを示しています。★実は「わたしは、いるのである」というこの言葉は、「εγω ειμι」と表記されまして「神の名」なのです。ですからユダヤ人には「アブラハムの生れる前からわたしは、神である」と聞こえたわけです。主イェスは「悪霊つき」なのか、それとも「ほら吹き」なのか、それとも文字通り「εγω ειμι」なのか!

ゆるぎない信頼関係の保証

★復活の時から少し時間を戻し、ゲツセマネの園での主イェスのお姿に目を向けます。マタイによる福音書の記す全体の中で、次の出来事に目を止めます。(38)そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。(39)そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。★ここに記されているのは、十字架刑に処せられる前に主イェスが語られた率直な願いです。「もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」この言葉が主イェスの口を通して語られたことによって、私たちは大きな慰めを得ます。この時の主イェスのお姿が示しているのは次のことです。「これが自分に与えられた使命だ」と確信する者たち、あるいは、そのような確信を与えられていると信じる者たちではあっても、その使命を回避したいとの願いを心の中に持つことは、当然の事なのだという事実です。★このことの故に、続く「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」との主イェスの言葉が、無力感から来る「あきらめ」の言葉ではなく、「運命には逆らえない」という諦念からくる言葉でもないことが分かるのです。「父なる神」に対して「率直に、恐れなく、やましさもなく」自らの願いを語ることが出来る「信頼関係」があるからこそ、「父なる神のご意志」に信頼して、「みこころのままになさって下さい」と、「明確な意志」を込めた言葉を語り得るのです。★主イェスの復活という出来事は、私たちもまた、そのような「信頼関係を父なる神との間に持ち得るのだ」ということの保証であります。
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