牧師のページ

聖書は初めから「見えない領域」のことを伝えている

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★「確かに偉大なのは、この信心の奥義である。神は肉において現れた。

(テモテヘの手紙第一第3章16節)

★ルターはこの御言葉に基づいて次のように語っています。◆キリストを知ること、すなわち、彼が人となり、神に苦しめられ打たれて、最も軽蔑すべき価値のない人間と見なされるほどに低くされたこと、また、それは私たちの(罪の)ためになされたことを知るのは、キリスト者の正しい貴重な行いであり、最高の知恵である。◆人は悪魔を防ぐことも、大きな害を与えることもできないが、イエス・キリストとその受肉について教え、説教し、歌い、語ることができる。だから私は、人が教会で大きな声でゆっくりと上手に、「彼は人となり、『ことば』は肉となった」と歌うのを聞くと、大いにうれしくなるのである。◆この言葉に悪魔は耐えられず、ずっと遠くヘ逃げ出さなければならない。なぜなら、悪魔はこの言葉が何を意味しているかよく知っているからである。◆「『ことば』は肉または人となった」と歌って私たちの心に喜びが溢れてくると、悪魔はとても驚いて震えだす。それは私たちにとっては、大いに良い状態なのである。★聖書に基づけば、私たちの生きている現実には、初めから「見えない領域」があります。ルターの言葉に見るように、キリスト教信仰は、その「見えない領域」で起きていることを扱っています。この意味で言えば、見える世界だけを土台にして生きる人生は極めて狭い人生と言わなければなりません。★自分の人生を「見えない領域」からの「聖書の言葉」で支えることは愚かに見えますけれども、実は確実なのです。

御子イエスは被造世界を完成させる為にお生まれになりました

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★クリスマスに次の御言葉です。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。ひとり子を信じるものがー人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書第3章16節)★続いて、ルターのコメントです。「あなたはー人の人間であって、この世のー部であるから、この御言葉は、ペトロやパウロと同様、あなたにも大いに関わることなのである。だから、「御子が与えられ、彼によって永遠の命が約束されている人々のー人に私が入っているかどうかわかるものか」などと考えてはいけない。なぜなら、それは、私たちの主なる神を偽り者にすることだからである。それゆえに、このような思いが浮かんだら、あなたは、悪魔がすぐそこにいるかのように十字を切って、そんな思いに惑わされないように、そして「なぜ、私は、ペトロでもパウロでもないのに、などと気にかけるのだろう」と言いなさい。もし、神がこの宝を彼らや彼らのようにそれにふさわしいような人々にだけ与えようとされたのだとしたら、彼は、それをきよく汚れのない霊である天使たちやもしくは太陽や月にお与えになったであろう。しかし、ここには、神は御子をこの世にお与えになったと記されており、そこに値うちがある。それゆえ、たとえ私がペトロでもパウロでもなかったとしても、私はこの贈物から締め出されることはないであろう」★ルターに逆らうわけではありませんが、ヨハネが「世」と記した所に「人間だけ」を読み取るべきではないでしょう。大きく言えば「世」とは被造世界全体のことでしょう。神は「世」を愛され、永遠の命を得た人たちが生きる「神の国」として完成なさるのだと信じます。

クリスマスの時にキリスト者が「期待して待つ」のは?

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★主イェス誕生の時に生きていた一人の人物に焦点を当てます。★マリアとヨセフは赤子が生まれて八日が過ぎたため、赤子を「イエス」と名付けました。二人は、きよめの律法規定を守り、次に初子の律法規定に従い、赤子イエスを連れてエルサレムへ上りました。★その時、エルサレムにシメオンという名の人がいました。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいました。また聖霊が彼に宿っていたのです。このシメオンは、主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていました。★シメオンが御霊に感じて宮に入りますと、両親が赤子イエスを連れて入ってきたのです。シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言いました。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。」★記載がないためシメオンの年齢は不明です。しかし、語られた言葉の内容から、高齢な老人であったと推察されています。ということは、シメオンは「高齢なその年齢に至るまで、毎日毎日、救主の来訪を待ち続けていた」ということです。★一口に「期待して待つ」と言いますが、実生活の中で「期待して待つ」ことは、なかななかしんどいものです。ですから、年老いたシメオンを支えていたのは恐らく「聖霊の示し」でありましょう。この「聖霊の示し」を適用的に言えば、「聖書の中に記された約束(契約)の言葉」と言えます。★その約束(契約)の言葉に基づくなら、このクリスマスの時、クリスマスの意味を知るキリスト者が「期待して待つ」のは、主イェスの「再臨!」です。

神のかたちに創造されたわたしたちの心は応答的意志を持つ

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★ヨハネによる福音書5章に、ベテスダの池で主イェスにより病気を癒された人の話が記されています。このように記されています。(02)エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。(03)その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。(04)それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕(05)さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。(06)イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。(07)この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。(08)イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。(09)すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。★この箇所のハイライトは恐らく、主イェスがこの病人に対して「なおりたいのか」と尋ねたことでしょう。そして、この問いかけに対する病人の答えは様々に説明できると思いますが、私はこの病人は「なおりたい」と答えていると聴き取ります。★神のかたちに創造された人間には、どんなに絶望する状況に置かれたとしても、“主”に対して「したい」という応答的意志を働かせる力はあるのです。
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