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December 2008

キリスト者の歩みは、立ち返り(悔い改め)の連続


★主イエスのご降誕を心から喜び、感謝いたします!★私たちは、様々な人達に出会い、その声を聞きます。それと同様に、私たちは、福音書を通して、主イエスに出会い、その御声を聞きます。主イエスはこう語られます。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」もちろん、直接話法ですから、この言葉は現在形です。しかし、信仰的に言えば、主イエスは、今でも現在形で、この言葉を私たち一人一人に語りかけ得るのです。★なぜでしょうか?主イエスに起きたことが、そのことを明らかにしています。ご存知のように、主イエスは十字架の上で死なれました。しかし、主イエスは三日後に復活されたのです。主イエスの復活は、とても単純な事実を告げています。それは、主イエスが今も生きて働くことがおできになる、ということです。主イエスは、現在的な御方として、現在的な言葉を私たちに語ることがおできになるのです。★このことを知る時、「だれでもわたしについてきたいと思うなら‥」というこの言葉が、新しく招かれている人達に対してだけではなく、既にキリスト者である私たちにも意味を持つことが分かります。それは、例えば、私たちが自由の幻想に酔い、信仰の歩みから遠く外れ、キリスト者である自分を見失っていることに気付いた時です。その時、主イエスはこう語られるのです。「だれでもわたしについてきたいと思うなら‥」★この言葉は自発的な選択を求めています。「わたしについてきたいと思うなら‥」とのこの言葉は、立ち返り(悔い改め)への招きとなります。そして、私は、この立ち返りへの招きがあるので、キリスト者は立ち直れるのだと信じています。

主の祈り②


★今日は、主の祈りの中の次の祈りです。「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」★既にご存知かも知れませんが、主イエスが「御国」あるいは「天国」や「神の国」という言葉を使われた時、文脈によって、意味が二つに分かれます。逆に言いますと、「御国」という言葉には、二重の意味があるのです。第一は、主イエスの再臨によって到来するであろう「新天新地」を意味します。これは旧約聖書全体に語られ、ヨハネの黙示録においても確認できることです。第二は、神の国の本質である「神の支配」のことです。つまり、神の支配が及んでいるところが神の国ですから、この本質である神の支配のことを意味します。★そうしますと、主イエスが祈るように教えてくださった祈りは、二重の祈願になっています。第一の祈願は、文字通り、神の支配が完全に行き届いた、新天新地が到来しますようにという祈願です。第二の祈願は、その新天新地の到来を待つ間、私たちの生きている今のこの現実の中に、御国(神の支配)が来ますように、という祈りです。そして、今の私たちに臨んで欲しい神の支配(御国)とは、主なる神様がいらっしゃる場(天)で行われているのと同質のご支配が、今、私たちが生きている、この地上(地)においても行われる事です。★私たちキリスト者は、主イエスの到来によって神の支配は既に始ったのだとまず信じます。そして、やがて到来するであろう神の国を目指して、今この時を生きるのです。

主の祈り①


★今日から有名な「主の祈り」を学びます。主イエスがこのように祈りなさいと教えてくださった祈りです。「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。」★この祈りの中では、三つの言葉が確認されます。まずは「父よ」です。主イエスがここで用いられたヘブル語の言葉「アバ」は、幼児が父親に呼びかける時の言葉であると言われます。今の私たちで言えば、「パパ」とか「お父ちゃん」という呼びかけです。この呼びかけが意味しているのは、安心感と親近感です。心から安んじ、親しみを持ちつつ祈って良いのですよ、ということです。★次が、父を修飾する「われらの」という言葉です。読んでの通り、「わたしの」という一人称単数ではなく、一人称複数であります。このことは、家族の比喩で理解することができます。家族とは、ユニークな一人一人の共同体です。つまり、キリスト教信仰は、一方で「わたしの」という個人的な面を持ちつつ、他方「わたしたちの」という共同的な面を持つのです。キリスト教信仰は、本来的に、一人の人間が、単独で生きることを前提としていないのです。★そして最後に「御名があがめられますように」という言葉です。この言葉の原意は、「神が聖とされますように」という意味であると言われます。そこから、神が聖とされるとは「神が神とされる」ことであると説明され、最終的に、神が神とされるということは「本来受けるべき賛美・称賛が主なる神様に対して与えられることだ」となります。もっとも平易に言えば、私たちの口が「主なる神様は本当に素晴らしい!」と告白することを意味します。今、私たちも告白します。主なる神様は本当に、本当に素晴らしい!
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