牧師のページ

イースターおめでとうございます

★ルカによる福音書の中に、エマオという村へ向かっていた二人の弟子に対して、復活された主イエスがお出会いになる記事があります。★主イエスはこの二人の弟子たちに問います。「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか?」この問いに対してクレオパという弟子が答えます。「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。主イエスは言います。「それは、どんなことか」★この問いに対して、クレオパは、主イエスが行われた御業から始め、主イエスの十字架刑、そして、墓から消えた主イエスの遺体について語るのです。この時クレオパが主イエスを呼んだ肩書きは「力ある預言者」でした。この説明を受けた後、主イエスは二人の弟子にこう語りかけています。「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。『キリスト』は必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」★この個所を読んだだけでもわかりますが、主イエスが単なる「力ある預言者」の一人ではなく、旧約聖書の中で預言されていた「キリスト=救い主=メシヤ」であるという啓示が信じられるためには、どうしても「復活」という出来事を経る必要があったのです。しかも、主イエスのお言葉から判断すれば、メシヤの復活については、「モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり」文字になって記されているのです。★起きた出来事自体の啓示と起きた出来事を説明する啓示の両方が一人の人格の中で一つになること、それはもう神聖な領域(聖霊の御業)です。

被造世界に織り込まれた神的知恵

★箴言第8章に記された「知恵」の位置づけはこれです。(22)主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。(23)いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。(24)まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、わたしはすでに生れ、(25)山もまだ定められず、丘もまだなかった時、わたしはすでに生れた。(26)すなわち神がまだ地をも野をも、地のちりのもとをも造られなかった時である。(27)彼が天を造り、海のおもてに、大空を張られたとき、わたしはそこにあった。(28)彼が上に空を堅く立たせ、淵の泉をつよく定め、(29)海にその限界をたて、水にその岸を越えないようにし、また地の基を定められたとき、(30)わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、(31)その地で楽しみ、また世の人を喜んだ。★読んでの通り、第一に、知恵が人格的存在であることがわかります。第二に、知恵が創造の御業に関与していた可能性が推察されます。そして第三に、人格的存在である知恵が、私たち人間(世の人)を喜んでいることが分かります。★3つの中の第二点に的を絞れば、キリスト者としては、被造世界には「知恵が織り込まれている」という判断ができます。被造世界を丹念に、熱心に、そして真面目に観察する者は、被造世界の持つあまりの不思議と素晴らしさの故に、創造者の存在を感じざるを得ないと私は思います。その感動に素直に従うことが、主イエスの語られた、「幼子のような信仰」の核心です。★とは言え、人間的知恵が神的知恵に置き換わるためには、人間の側は、コペルニクス的転換を必要とするのでしょう。

虚無の力がもたらしたものを回復させる責任

★使徒パウロの記した言葉にこうあります。(19)被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。(20)なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、(21)かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。(22)実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。(ローマ人への手紙第8章)★パウロは「被造物が虚無に服している」と述べています。それも「服従させたかた」によるとも記しています。このパウロの言葉を私は次のように解釈します。つまり、アダムがアダム契約に違反した際、その契約違反の結果(虚無)は人間だけに及んだのではなく、被造物全体にまで及んでしまったということです。★私たち人間は「自然の驚異」という表現を用いて、人間の力では、自然をコントロールすることができないことを認めています。しかし、パウロが「被造物全体」と語る時、その意味する所は、被造世界全体であると、私は解釈します。ですから、人間は「自然をコントロールすることができない」というよりもむしろ、罪の結果「自然をコントロールする力を失っている」ということでありましょう。また同時に、自然そのものも、定められた領分を越えて「虚無に服した動きをしてしまう」ということなのではないかと考えるのです。ですから「被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けている」のです。★キリスト者は、虚無の力がもたらしたものを苦しみつつ回復させる責任を持つと考えます。
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