牧師のページ

自分自身に対する正しい自覚

★今朝は、使徒パウロの言葉に聞きます。パウロは言います。「わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である」。★「自ら省みて、なんらやましいことはない」というパウロの言葉の凄さに圧倒されてしまいますが、それはそれとしまして、パウロのこの言葉は、自らが、自分自身に対して「なんらやましいことはない」と判断する「規準」と、主なる神様が「義」と判定なさる「規準」が異なっているという理解を示しています。この理解は、キリスト者がいつしか傲慢となり、「主なる神様の憐れみ・恵みという土台の上に立っているからこそ、キリスト者として歩むことができる」という事実を忘れてしまうことがないために、どうしても必要な理解です。★キリスト者であれば、この「主なる神様の憐れみ・恵みという土台」は常に意識していたいのですが、私などは、すぐに忘れてしまいます。パウロの言葉で言えば「罪人のかしら」という自覚が決定的に足りないのです。★パウロの自己理解は、はっきりしています。「わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」。正しい意味で「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」と語り得るためには、「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」という「義とされる道」を聖霊によって、正しく自覚する以外にありません。

ほんとうの愛を構成しているもの

★御霊にある成長を目指して、マザー・テレサの言葉に聞きます。
 ほんとうの愛は、並外れた
 すばらしいことであるに決まっている、
 と思ってはなりません。
 そんなものはないのです。
 私たちの愛に必要なのは、
 私たちが愛しているあのお方を愛し続けることなのです。
 ランプがどうやって燃えているかご覧なさい。
 油の小さな滴を絶えず費やしながら燃え続けているのです。
 もし、もうランプに油の滴がないなら、
 灯りはともらず光は消えるのです。
 私たちのランプの油の滴は何なのでしょうか?
 それは毎日の生活の中の小さなこと。
 誠実さ、ちょっとした優しい一言、少しは人を思いやる心、
 このような、ささやかな沈黙や表情や言葉やしぐさです。

★主イェスの語られたお言葉を思い起こします。その中の一つです。
「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。」

無自覚な「前提」を敢えて問う姿勢

★イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。この主イェスの言葉をどのように適用することが適切なのか、悩みつつも一つの提案です。★適用的に言えば、「パン」とは私たちの持つ地上の生物的な命を支えるものの代表です。これを、大きく考えましまして「経済」とします。それでは「神の口から出る一つ一つの言」の方は、適用的にどう置き換えましょうか?もちろん様々な適用語が考えられますが、ここは「神の言」の持つ性質に置き換えます。大変抽象的ですが、正義とか真理と置き換えて見ましょう。そうしますと次のようになります。「人は経済だけで生きるものではなく、正義(真理)で生きるものである。」★適用されたこの言葉に基づいて考えたいことは、今の日本(世界?)の経済優先の考え方そのものではなく、経済優先の考え方が背後に持つ前提です。主イェスの言葉が提示しているのは、経済優先の考え方に「対抗して物を言う視点」が存在していることを示します。「創造主からの視点」です。もっと言えば、「最終的には、創造主の視点に、正義(真理)の基準がある」という視点です。この視点が無い場所では、正義(真理)の定義そのものが、人間の立っている地平で決められます。乱暴に聞こえるかもしれませんが、議論を尽くしたとしても、最終的に、多数決の論理か権力の集中している場からの声が優勢になるでしょう。とは言え、どちらも相対的な基準であるため、正義(真理)の乱立となります。★「人間自身が、人間の立っている地平で、正義(真理)を決めるのは当然である」という前提があるのです。
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