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自分自身に対する正しい自覚

★今朝は、使徒パウロの言葉に聞きます。パウロは言います。「わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である」。★「自ら省みて、なんらやましいことはない」というパウロの言葉の凄さに圧倒されてしまいますが、それはそれとしまして、パウロのこの言葉は、自らが、自分自身に対して「なんらやましいことはない」と判断する「規準」と、主なる神様が「義」と判定なさる「規準」が異なっているという理解を示しています。この理解は、キリスト者がいつしか傲慢となり、「主なる神様の憐れみ・恵みという土台の上に立っているからこそ、キリスト者として歩むことができる」という事実を忘れてしまうことがないために、どうしても必要な理解です。★キリスト者であれば、この「主なる神様の憐れみ・恵みという土台」は常に意識していたいのですが、私などは、すぐに忘れてしまいます。パウロの言葉で言えば「罪人のかしら」という自覚が決定的に足りないのです。★パウロの自己理解は、はっきりしています。「わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」。正しい意味で「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」と語り得るためには、「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」という「義とされる道」を聖霊によって、正しく自覚する以外にありません。
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