牧師のページ

人間が「神のかたち」に創造されていることから

★「新コロナウイルス」から「疫病」を連想し、聖書内を検索しました。★まずは、イスラエルの民の出エジプトを拒んだエジプトに臨むと予告された「疫病」です。「(1)…わたしの民を去らせて、わたしに仕えさせなさい。(2)あなたがもし彼らを去らせることを拒んで、なお彼らを留めおくならば、(3)主の手は最も激しい疫病をもって、野にいるあなたの家畜、すなわち馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に臨むであろう。」★次に「疫病」はイスラエルの民にも臨みます。(15)しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。…(21)主は疫病をあなたの身につかせ、あなたが行って取る地から、ついにあなたを断ち滅ぼされるであろう。(22)主はまた肺病と熱病と炎症と間けつ熱と、かんばつと、立ち枯れと、腐り穂とをもってあなたを撃たれるであろう。」★主イェスが語られた終末の教えにも登場します。「(8)イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。…(9)戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。…(11)また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り…」★このように聖書は「疫病」と裁きを結びつけて啓示しています。聖書の啓示に立つなら、無神論を自覚的に主張する人間であっても「神のかたち」に創造されている以上「宗教性」を持っています。本人の無神論意志は神や神による裁きの教えを嫌悪し否定するかもしれませんが、その「宗教性」は、制御できない「疫病」の存在に対して「裁き」を感じ取ってしまうと、私は思います。この感覚は重要であると信じます。

今・この時「心に律法の要求が記されている」という聖書の啓示に基づくなら…

★サマリヤの町がシリヤ軍に包囲され飢餓状態にあった中で、主の介入が起きた時、重い皮膚病の故に生活共同体から排除されていた人達の反応が聖書にあります。
[03]さて町の門の入口に四人の重い皮膚病の人がいたが、彼らは互に言った、「われわれはどうしてここに座して死を待たねばならないのか。[04]われわれがもし町にはいろうといえば、町には食物が尽きているから、われわれはそこで死ぬであろう。しかしここに座していても死ぬのだ。いっその事、われわれはスリヤびとの陣営へ逃げて行こう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるならば、助かるが、たといわれわれを殺しても死ぬばかりだ」。[05]そこで彼らはスリヤびとの陣営へ行こうと、たそがれに立ちあがったが、スリヤびとの陣営のほとりに行って見ると、そこにはだれもいなかった。[06]これは主がスリヤびとの軍勢に戦車の音、馬の音、大軍の音を聞かせられたので、彼らは互に「見よ、イスラエルの王がわれわれを攻めるために、ヘテびとの王たちおよびエジプトの王たちを雇ってきて、われわれを襲うのだ」と言って、[07]たそがれに立って逃げ、その天幕と、馬と、ろばを捨て、陣営をそのままにしておいて、命を全うしようと逃げたからである。[08]そこで重い皮膚病の人たちは陣営のほとりに行き、一つの天幕にはいって食い飲みし、そこから金銀、衣服を持ち出してそれを隠し、また来て、他の天幕に入り、そこからも持ち出してそれを隠した。[09]そして彼らは互に言った、「われわれのしている事はよくない。きょうは良いおとずれのある日であるのに、黙っていて、夜明けまで待つならば、われわれは罰をこうむるであろう。さあ、われわれは行って王の家族に告げよう」。
★8節に記された彼らの反応は言わば当然です。それでは9節の内容はどうでしょう?この転換が起こせるようにと、私たちは「神のかたち」に創造されています。

私は「根拠を問わない姿勢」は危険だと考えます。

★皆様もご存知のように、先週末「中国、韓国からの入国制限の強化」が日本政府により発表されました。このことを起点にします。★テレビでも語られていましたが、日本の行政の長である人物は「これからこうする」という考えを発表するだけで「何故そう判断したのか」という詳細な判断の根拠をほとんど語りません。この事態に対して、私たち国民の側が「これって何かおかしくない?」という疑問を持ちたいと考えます。★「何故そう判断したのか」という判断の根拠を明確にするのは「後から(もちろん途中でも)」自分たちの行った決断に対する検証を可能にするからです。★聖書の記述(啓示)から明らかなことは、人間は「誤りを犯す存在である」という事実です。この視点から言えば、聖書は、国王と呼ばれる為政者から始まって市制の一人に至るまで、この事実から逃れられないということを文書として残しています。ですから、聖書は人間に「倫理を教える書物」たりえているのです。★今回このことを持ち出したのは、私たちが「イエス・キリストの福音」を信じていることに対しても同じ態度を持ちたいからです。★わたしたちキリスト教会(キリスト者)は「なぜ、イエスをキリスト(救い主・メシヤ)と信じるのか」という根拠を、きちんと聖書(旧新両約聖書)から聴き取っているでしょうか?聖書は明確に、その根拠を語ってくれているのです。★「ただ信ぜよ!」という言葉は「こういう根拠の故に、ただ信じるだけで救われるのですよ!」という意味の言葉であると私は考えます。丁寧に聖書から聴き取る努力を積み重ねないと「根拠を問わない信仰者」を生み出してしまいます。

創造主と人間とは契約関係で結びついている

★東京基督神学校で、私は聖書の啓示を理解するための視点として「創造主と人間とは契約関係で結びついている」ということを学びました。★今聴き取っていますローマ人への手紙を読み進みますと第5章12節で次の言葉を読むことになります。
(12)このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
★パウロもまた「創造主と人間とは契約関係で結びついている」との理解を持っていましたから、パウロがその「契約的視点」でこの12節を語っていると解釈します。そうしますと、このパウロの言葉は次のように読み取ることになります。「このようなわけで、ひとりの人(アダム)によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が(アダムにおいて)罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」★このように聞き取る根拠は、創世記第2章16,17節の内容─(16)主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。(17)しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」─を「創造主と人類の代表であったアダム」との間で結ばれた「アダム契約」と解釈するからです。★パウロはこの「最初のアダム」を「きたるべき者の型」と呼び、主イェスが「最後のアダム」なのだと語ります。「最後のアダム」が成し遂げたことが「全人類の代表」としての「業」であったことを信じる時、「最初のアダム」がもたらした「死」からの解放と「永遠の命」が与えられます。
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