牧師のページ

「悪魔」は被造物にすぎない

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★ルターの書いた文章を読んでいて気付かされることがあります。それは様々な所に「悪魔」が登場してくることです。その理由についてルターに聞くことが出来ないので、推察します。★わたしが思い起こすのは次の聖書個所です。[06]ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。」(ヨブ記1章)。この言葉から判断しますと、「悪魔(=サタン)」は自由に行動することが出来ています。★同じことが新約聖書からも確認できます。その中の一つがここです。[08]身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている(Ⅰペテロ5章)。★この言葉に基づいて判断するなら、「悪魔」は、今この時にも自由に動くことができ「食いつくすべきものを求めて歩き回っている」わけです。ですから、ペテロはこう続けます。[09]この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。★再びペテロの言葉から判断しますが、「悪魔」に対する対処法は「信仰に立って、抵抗すること」です。そして、この時持つべき「信仰」の内容は、「悪魔」は反逆した「被造物に過ぎない」ということです。つまり同じ「被造物」である人間が「悪魔」に勝てなくても、「被造物過ぎない悪魔」は「三位一体の神(創造主)の第三位格である聖霊」には勝つことが出来ないという事実に立つということです。

魂の渇きを覚える時に

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★私は「魂の渇き」を覚える時に、詩篇第42篇を思い起こします。この詩篇には「魂の渇き」が見事に表現されていて、恐らく、自分の思いを代弁してくれるように感じるからでしょう。
(01)神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。
(02)わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか。
(06)わが魂はわたしのうちにうなだれる。それで、わたしはヨルダンの地から、またヘルモンから、ミザルの山からあなたを思い起す。
(09)わたしはわが岩なる神に言う、「何ゆえわたしをお忘れになりましたか。何ゆえわたしは敵のしえたげによって悲しみ歩くのですか」と。
★大袈裟かも知れませんが、これらの言葉一つ一つを、私の心が抱え持つ「自分では表現することの出来ない思い」の発露のように感じます。しかし、私が詩篇第42篇を思い起こすのはそれだけの理由ではないとも考えています。それは「渇き」を覚える「魂」の中に、もう一つの思いがあることを自分自身が知っているからだと思います。
(05,11)わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。★幸いなことに、私の心の内には、自分の魂に対して「神を待ち望め」と語るもう一人の自分がいるのです。この自分に対して聖霊が、忍耐強く、触れ続けて下っているのだと信じています。

信仰者が眠りこけないために

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★まず最初に、ルターの言葉を聞いてください。(指示代名詞に対する説明は私の解釈に基づいて、私が加えました。)「★私たちを目覚めさせるような、悪魔の手先になっている集団が存在していなかったら、私たちは怠情になって死ぬほど眠り、いびきをかいてしまうだろう。また、信仰も御言葉も、私たちの中で暗くなり錆び付いて、まったくだめになってしまうであろう。★しかし、今、このような集団が、私たちの信仰や教えを研ぎ磨く研磨工になっているので、信仰と教えが鏡のようにすべらかに純粋に輝いており、人(キリスト者)はそれ(このような集団)によって悪魔とそのたくらみを知ることを学び、彼(悪魔の手先になっている集団)に対してうまく争えるようになる。★さらに、それ(争い)によって、御言葉自体がこの世になおいっそう明らかに示されるので、多くの人々がこの争いを通して真理を体験し、また、そこで強められる。なぜなら、それは、神の言葉が大いに働く正念場だからである。このために、神は、御言葉が仕事をやり遂げるのを望んでおられ、彼(神)の力と徳をあらわし、偽りをあばくために、悪魔とこの世の両方を引っ掛け追い立てておられるのである。」★ルターの論理は明解でした。私は眠っていたように思います。このルターの言葉を聞いた上で、私が思い起こさせられたのは、次の言葉でした。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。★どうぞ皆様も、それぞれに、自らの内に蓄えておられる「御言葉」を思い起こしてください。

「神のように善悪を知る者となる」とは

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★創世記第3章4,5節にこう記されています。
[04]へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。[05]それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」
★「
神のように善悪を知る者となる」とは何を意味しているのでしょうか?折々に語っていますが、「善悪を知る木」の実には特別な力があって、アダムとその妻とがその実を食べると、創造された時に不足していた善悪の判断が付加されるということではありません。★次のように解釈できます。創世記第1章31節に「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」と記されています。この「良かった」のヘブル語は「トーブ:טוב」です。次に、「神のように善悪を知る者」とは、「創造主のように善悪を知る者」と解釈でき、この「善悪」の「」も「トーブ:טוב」です。以上から、「神のように善悪を知る者」とは、「創造主のように何が善で何が悪であるかを最終的に判断し宣言できる者」と言えます。説明的に言えば「創造主」とは「ご自身以外の他の存在に尋ねることなく」、「何か善で何が悪であるかを最終的に判断し宣言できる御方」なのです。★ですから、アダムとその妻が「善悪を知る木」の実を食べてしまった時、自分たちを「最終的判断者であられる創造主を越えて、自ら最終的に判断する者」としてしまったのです。これが私たちの持つ罪の本質でもあります。
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