牧師のページ

信仰の砦である教会

★信仰によって歩むとは、まだ見ていない将来を主なる神様が支えてくださると信じて歩むことです。ですから、恐れや不安が生まれるのは当然です。ですから、主イェスは約束の言葉を残されました。★あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。☆きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。☆だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。☆まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。★これが、信仰共同体としての教会へ向けられた約束の言葉であり、そこに属するキリスト者一人一人に向けられた言葉です。求められているのは、キリスト者個人と同時に教会としての応答的信仰ですが、個人の応答的信仰が揺すぶられる時でも、教会としての応答的信仰が確固としていれば、個人の恐れや不安は越えられて行くのです。

クリスマスおめでとうございます!

★クリスマスを迎えるにあたり、次のような思いが与えられました。★ヨハネによる福音書第1章18節にこう記されています。[18]神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。ここでヨハネが記している通り、ひとり子なる神、イエス・キリストだけが、神をあらわしたのです。★次に、マルコによる福音書1章14,15節にはこう記されています。[14]イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。この記述から、主イェスは、まず最初に、福音という形で、神をあらわす言葉を語られたと理解できます。また、この時の主イェスは、30才位であったと考えられています。★この二つを並べてみればわかりますように、主イェスが、ご自身の肉声を通して、神をあらわす言葉を語られたのは、主イェスがお生まれになった時ではありません。この意味で言えば、主イェスの誕生を目の当たりにした人達が、主イェスの口を通して、直接、神をあらわす言葉を聞くまで、30年間待たなければならなかったのです。一口に30年と言いますが、なかなかの時間です。★ここでもし、ある人物の福音との出会いを、その人物に対する主イェスの誕生だと考えれば、主イェスの肉声が心に届くまで、30年位経過してもなんら不自然ではないということです。ですから、それよりも短い時間で、主イェスの福音が心に収まったのなら、それこそが恵みであります。心から、感謝しましょう。そして、ご一緒に、クリスマスおめでとうございます!

クリスマスの出来事の中心点

★ヨハネによる福音書1章17節にこうあります。
[17]律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
★その律法の土台が十戒です。申命記5章から中核を拾います。
[07]あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない。
[08]あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。
[11]あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
[12]安息日を守ってこれを聖とせよ。
[16]あなたの父と母とを敬え。
[17]あなたは殺してはならない。
[18]あなたは姦淫してはならない。
[19]あなたは盗んではならない。
[20]あなたは隣人について偽証してはならない。
[21]あなたは隣人の妻をむさぼってはならない。また隣人の家、畑、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをほしがってはならない。
★「めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきた」とは何を語っているのでしょう?大きく言えば、主イエス・キリストの登場によって、全ての人間が、この律法を完全に守った者と見なされ、この律法を守った者に約束されている祝福を享受できる道が開かれた、ということです。★ここで重要なのは「見なされ」とか「開かれた」というように、私たちにとって「受身」であり、「外側から」という点です。

聖霊なる神様に期待する

★加藤常昭先生によれば、改革者ルターの言葉に「あなたの耳に目を突っ込みなさい」という言葉があるとのことです。先生は、この言葉によってルターが意図していることを、「その人が見るように聴け」とも解説しておられます。今流の考え方で言えば、「右脳と左脳を同時に働かせて御言葉を聴け」となるでしょうか。★加藤先生も語られる通り、キリスト教会の集会に行きますと言葉が満ちています。教会の中には、壮麗な祭壇や、神秘的なご神体があるわけではありません。賛美も祈りも言葉ですし、とりわけ説教を通して御言葉が語られているのです。ルターによって回復されたプロテスタントのキリスト教会とは、御言葉によって生きる教会ということです。★多くの人達は、「御言葉を通して主にお出会いする」と言いますと怪訝に思われるかもしれません。しかし、キリスト教の歴史は、それが事実であることを証明しています。創世記を読んだとき、出エジプト記を読んだとき、イザヤ書を読んだとき、エレミヤ書を読んだとき、詩篇を読んだとき、私たちは、御言葉を通して、主なる神様にお出会いする体験を積み重ねてきたのです。★「その人が見るように聴け」この意味で言えば、日々御言葉を聴くときに、私たちは主イエスを見たいのです。日々御言葉を聴くとき、主イエスにお会いしたいのです。私たちは、このことを可能にしてくださる、神の霊・御霊・聖霊なる神様に期待するのです。
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