September 2012
主イエスが十字架刑に処せられた意味
23/09/12 00:00
★主イエス・キリストの使命を理解するために、預言者ヨナと主なる神様との間の対話は大変役立ちます。★出来事自体の概略はこうです。ヨナはニネベの町にはいり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と伝えました。ニネベの町の人達は、「神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た」のです。このうわさがニネベの王に達すると、王はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、王自身もまた灰の中に座したのです。それだけではありません。王とその大臣の布告をもって、ニネベ中に悔い改めの布告するのです。主なる神様の側は、彼らがその悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになったのです。★ヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り出します。ヨナは怒りの理由を述べています。その理由に対する解釈は多々あるとは思いますが、私としては「滅びると預言したその預言の言葉が、主なる神様ご自身によって覆されてしまったことだ」と解釈致します。つまり、ヨナにとって大切だったのは、「預言の言葉が成就する」ことでした。これに対し、主なる神様にとって大切だったのは「十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜」だったのです。★エゼキエル書第33章11節にこうあります。「あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。《イスラエルの家よ》、あなたはどうして死んでよかろうか。」この《 》の中に、私達一人一人の名が入っているのです。
心が踊っている時に
16/09/12 00:00
★心理学で「心が踊っている」という表現があります。これは肯定的な意味ではなく、否定的な心の状態で、言わば理性的なコントロールが機能していない状態です。一般の言葉で言えば、「落ち着きがなく」、「そわそわし」、「冷静さを欠いた」状態です。一般的な言葉で言えば、「あがりの状態」がそのものズバリです。このように書き記しますと、かなりの頻度で、誰もが体験している心の状態ではないかと思います。★より丁寧に言えば、「心全体が踊っている」状態から、理性的なコントロールの余地が残されている状態まで、各自それぞれに位置取りがあります。そのような状態の中、理性的なコントロールの余地にあたる部分とは、自分を客観的に観察できる状態です。「自分は今あがっているな」と思える瞬間は、理性的な瞬間です。別の表現で言えば「自覚の瞬間」です。★この瞬間を捕えて、行動を止めること、そこに脱出の道があります。大切なのは「一旦行動を止める事です」。そして、わたしたちキリスト者は、御言葉に聞くのです。例えば、ペテロの第一の手紙第5章7節(口語訳)にこうあります。「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」次に、この御言葉から、「私の場合、心に溜まった思い煩いが、心の落ち着きを乱しているのではないか?」と思い巡らしてみるのです。そのようにしていますと、「あのこと、このこと」と思い至る可能性があります。また、私の場合は「心が踊っている」時、必ずと言ってよいほど「怒りの感情」が出現しますので、すぐに気づきます。★そして、せっかく「自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」というペテロの勧告があるのですから、完全な冷静さに届かずとも、かなりの程度の冷静さに至るために、この勧告に従うのです。
“選び”ということ
02/09/12 00:00
★加藤常昭牧師のコラムから引用します。(口語訳に変更)☆[03]ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、[04]みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、[05]わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。(エペソ1章)☆私たちがキリスト者として生きるのは、自分で選択し、決めたことではない。「主イエス・キリストの父なる神」が、私たちを既に選んでいてくださったからこそ、今教会に生きる。教会について語るエペソ人への手紙は、そこを出発点にして語り始める。この選びの事実を賛美することから始める。しかもそれは、私たちを「きよく傷のない者」とするためであり、「神の子」にするためのものであった。☆教会は神の子たちの群れである。これはまさにこの神のご意志に根ざすこととして信ずべきことである。だからこそ私たちは「神の家族」なのである。わたしたちが仲良しであり、家族のように気が合うからではない。わたしたちは、神の選びを信じる。私自身において。私たち自身において。★改革長老派神学の言う「選びの教理」は、他教派の人達には受け入れがたいものです。ただ一点、考えて欲しいことがあります。霊的に生まれることと、私たちが両親の間から生まれることとの間には啓示的な類比点があります。私たちは誕生することを意志的に選んではいません。また、私たちの誕生は、両親の愛の結果です。