牧師のページ

互いに愛し合いなさい

★夜の祈祷会で得た洞察を分かち合わせてください。パウロは、ローマ人への手紙14章で次のように語っています。(1)信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。(2)ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。(3)食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。(4)他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。★多くの場合、この4節は、次のように読まれています。「他人の僕をさばく(信仰の強い)あなたは、いったい、何者であるか。(信仰の弱い)彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。」★ところが、2節でパウロは「弱い人は野菜だけを食べる。」と語り、3節で「食べない者も食べる者をさばいてはならない。」と語ります。つまり、ここ3節でパウロは「(野菜以外)食べない者も、(何でも)食べる者をさばいてはならない。」と語っているのです。★もうお分かりと思いますが、「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。」という言葉から始まる4節全体は、信仰の強い者に対してだけではなく、信仰の弱い者に対しする言葉でもあるのです。★「相手を裁く」ということは、信仰の強弱には無関係に働く悪しき力なのです。主イエスの勧告が響きます。「互に愛し合いなさい。」

全ての事柄は、神の国において、帳尻が合う

★箴言第11章17節,24~26節にはこうあります。(17)いつくしみある者はおのれ自身に益を得、残忍な者はおのれの身をそこなう。(24)施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。(25)物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。(26)穀物を、しまい込んで売らない者は民にのろわれる、それを売る者のこうべには祝福がある。★節は飛んでいますが、17節にある「いつくしみある者」に該当するのが、それぞれ「施し散らす者」、「物惜しみしない者」、「人を潤す者」、「穀物を、しまい込まず売る者」と読むことが出来ます。そうしますと、「おのれ自身に益を得」とは「散らしても、なお富を増す」ことであり、「自分も潤され」、「こうべには祝福が臨む」と言えます。★このように整理しますと、この種の箴言は、通常の御利益信仰と何ら変わることがないように思えますが、実は、相当違うのです。聖書の世界観、即ち、キリスト者の世界観で言えば、「全ての事柄は、神の国において、帳尻が合う」という理解なのです。もし、この世の人達と同様に、自分が生きている間に全ての帳尻が合うことを考えているとしたら、恐らく、この種の箴言は、歴史的な検証の結果で言えば、「そう言える時もあるし、そう言えない時もある」となるように思います。★「受けるよりは与える方が、さいわいである」という主イエスの言葉もまた、同様です。「さいわい」の定義の問題とも言えますが、「全ての事柄は、神の国において、帳尻が合う」のです。キリスト者の時間感覚は、この世の人達が考えるよりは、はるかに遠大です。

主イエスの言葉を“どう聞く”のか

★大変恐れ多いことなのですが、私は、「へそまがり」の聖書解釈という表現で、伝統的な聖書解釈に対する素朴な疑問を表現することにしています。今回もそのような聖書個所に出合いました。★サマリヤとガリラヤの間に位置した小さな町に住んでいた十人の人達。彼らは重い皮膚病でした。また、十人のうちの一人はサマリヤ人でありました。彼らは、主イエスが町に入られたことを知ると、主イエスの見える遠い所から「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と叫びます。この叫びを聞いた主イエスは「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と答えられます。驚くべきことに、彼らは即座に主イエスの言葉に応答し、行動するのです。ルカの記述によれば、行く途中で彼らはきよめられたのです。素晴らしい信仰です。★サマリヤ人は、自分がいやされたことを知ると、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝します。主イエスの側は、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。」と問われます。★問題なのはこの主イエスの言葉です。この言葉は、本当に叱責や嘆きの言葉なのでしょうか。例えば、ほかの九人は「祭司たちのところに行った」と推察するのは愚かなのでしょうか。★ここで私は、12年間長血を患っていた婦人の癒しを思い起こします。主イエスは「わたしにさわったのは、だれか」と語り、わざわざ、その婦人見つけ出し「あなたの信仰があなたを救ったのだ」という言葉をおかけになりました。この「救いを宣言する」主イエスのお心こそが、あくまでも、十人全員に対してのお心なのではないかと、私は解釈するのです。

存在証明

★「被災地の仮埋葬の記事に見るB―2―1等の墓標ぞ悲しき(調布市)」
これは、朝日新聞の歌壇に選出されましたK兄の作品です。キリスト者であられるK兄のお人柄が醸し出されている作品であります。素人の感想でまことに失礼ですが、一人の人間が、この地上に生を受け、愛の内に成長し、家庭を築き、社会的責任を果し、最期の時を迎え、遺族に見守られながら埋葬されるという日常が、全く破壊されてしまった事実を思い浮かべました。★もし、遺骨が目に見える形での故人の存在証明だとすれば、愛する家族の存在証明を手元に残す事が出来なかったという無念さは、ご遺族にとって、癒しがたい心の痛みなのではないかと思わされます。★と同時に、私の心の内に、主イエスの語られた次の言葉が思い浮かびました。「あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。この事は、使徒パウロや黙示録を記したヨハネによれば「いのちの書に名が書かれている」という表現になります。★東日本大震災の被害に遭われた方々にあっては、キリスト者、非キリスト者の区別はありませんでした。この意味では、ご遺族が愛する者の遺体を発見できない、あるいは、遺体が確認できないまま、どこかに埋葬されてしまっている、という悲しい現実は、キリスト者、非キリスト者の区別なく、臨んでいると推察するのです。そのような現実の中で、キリスト者には、創造主なる神様から、希望の語りかけがあるのだと思わされたのです。★「あなたの愛する者の名は天に(いのちの書に)記されているよ」との御声は、遺されたキリスト者にとって、なんと慰めに満ちた存在証明でしょうか。
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