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主イエスの言葉を“どう聞く”のか

★大変恐れ多いことなのですが、私は、「へそまがり」の聖書解釈という表現で、伝統的な聖書解釈に対する素朴な疑問を表現することにしています。今回もそのような聖書個所に出合いました。★サマリヤとガリラヤの間に位置した小さな町に住んでいた十人の人達。彼らは重い皮膚病でした。また、十人のうちの一人はサマリヤ人でありました。彼らは、主イエスが町に入られたことを知ると、主イエスの見える遠い所から「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と叫びます。この叫びを聞いた主イエスは「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と答えられます。驚くべきことに、彼らは即座に主イエスの言葉に応答し、行動するのです。ルカの記述によれば、行く途中で彼らはきよめられたのです。素晴らしい信仰です。★サマリヤ人は、自分がいやされたことを知ると、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝します。主イエスの側は、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。」と問われます。★問題なのはこの主イエスの言葉です。この言葉は、本当に叱責や嘆きの言葉なのでしょうか。例えば、ほかの九人は「祭司たちのところに行った」と推察するのは愚かなのでしょうか。★ここで私は、12年間長血を患っていた婦人の癒しを思い起こします。主イエスは「わたしにさわったのは、だれか」と語り、わざわざ、その婦人見つけ出し「あなたの信仰があなたを救ったのだ」という言葉をおかけになりました。この「救いを宣言する」主イエスのお心こそが、あくまでも、十人全員に対してのお心なのではないかと、私は解釈するのです。
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