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箴言のめざすもの

★知恵の書に分類される箴言は「箴」という言葉自体に「いましめ」という意味があります。それ故に、「箴言」の多くは「辛言」とも呼ぶべき言葉となります。★心地よい言葉に出会う時にも気付きはありますが、気付きを与えられるという意味では、聞きづらい言葉の場合も実は同様なのです。ただ、この場合、言語化はしていないけれども、心がうすうす感じ取っている事柄を、明確化されるだけに、同時に心に辛さも感じてしまうわけです。★とは言え、現実的に言えば、「辛言」は成長へ向けての指摘である事がほとんどであり、逃げずに直面し、指し示されている方向へ、一歩でも二歩でも進み出す事が肝要なのです。★このように前置きさせていただいた上で、旧約聖書の箴言に目を向けますと、箴言第1章7節には「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。」とあります。ここで多少理屈を述べます。前半の部分は、「主なる神様を畏れることを、知識の一番始めとせよ」ということと同意です。しかも、「主なる神様を畏れることを、知識の一番始めとせよ」とは知恵の言葉であり訓戒の言葉でもあるのです。ですから、誤解を恐れずに聖書の視点で言うならば、「主なる神様を畏れることを、知識の一番始めとしない」人間は「愚かな者」なのです。★この箴言の主旨を突き詰めれば「愚かな者になりたくないなら、主なる神様を畏れよ!」となります。★同志社大学の創設者と言われる新島襄氏が「はじめに神は天と地とを創造された。」という、創世記第1章1節のこの言葉によって開眼したことは、大変良く知られた事ですが、これこそがこの箴言の目指していることなのです。

共同体が成長するための生命線

★今朝は箴言からまず二ヶ所引用いたします。第15章17節と第17章1節です。共に口語訳です。「野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる。」,「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」★この二つの箴言は、それぞれ、二対の対比から成り立っています。第一の箴言の対比は「野菜」vs「肥えた牛」と「互に愛する」 vs「互に憎む」であります。第二の箴言の対比は「平穏」vs「争い」と「ひとかたまりのかわいたパン」 vs「食物の豊か」であります。そして、この対比を通して箴言の作者が伝えているのはこういうことです。思索をまず家族に限定すれば、大変皮肉なことに、食生活が満たされることと家庭内の平和が満たされることとが反比例する傾向にある、ということです。★しかし、逆に言いますと、家族全体が互いに欠乏を忍耐している時には、互いを慮る心、いわゆる思いやりや、やさしさという愛の要素が働きやすい(断定的な言明は避けます)ということでしょう。 この傾向は、食生活だけに限定されない傾向であると思います。更に言えば、家族という枠組みを越え、家族的共同体と呼べる集団(教会も含む)にも、大なり小なり当てはまる傾向なのではないかと思わされます。 ★とは言え、家族的共同体がこの傾向に縛られたままであるとしたら恐らく、家族的共同体はある程度の大きさを越えることができないように思います。教会について言えば、主イエスとの関係を土台として「受けるよりは与える方が、さいわいである」という信仰に生きる共同体であるかどうかが生命線であると思わされます。

主なる神様は、特別な目的を持って信仰者の歴史の中に入り込んでいる

★私が担当するおはよう礼拝では、今「ヨセフ物語」を学んでいます。何度読んでも面白く、その歴史展開の中に思わず引き込まれてしまいます。しかし、「ヨセフ物語」は単に面白いだけではありません。その中には啓示的メッセージが豊かに織り込まれています。現在「主なる神様は信仰者である私たちの歴史とどのように係わっておられるのか」を考えています。★最近のメッセージから一つのことを述べさせていただきます。私たちの人生に起こることは、良きにつけ、悪しきにつけ、間違いなくこの世の因果関係によって説明がつきます。ヨセフの場合は、兄弟たちの嫉みにより、奴隷としてエジプトに売られてしまったわけですが、その原因は二つあります。一つは、父親の偏愛の対象であったことです。父が息子ヨハネを特別扱いした事によって、兄弟たちから嫉まれたわけです。もう一つは、ヨハネに夢を解き明かす賜物が与えられていたことです。このこと自体は嫉みの対象ではなかったのですが、解き明かされた夢の内容が、「傲慢なヨセフ」という判断を与えてしまったのです。★第一の理由は、純粋に父ヨセフが原因ですが、第二の理由は、主なる神様がヨセフに夢を解き明かす賜物を与えていたことに起因します。つまり、この時点で主なる神様がヨセフの歴史の中に入り込んでいることがわかります。大胆に言いますが、これと同じように、主なる神様は、特別な目的を持って信仰者の歴史の中に入り込んでいるのです。ただそれが私たちにはわからないだけのことです。「創造主」を信じる時、このことも同時に信じて良いのです。
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