牧師のページ

富める青年と使徒パウロとの出会い

pcd10011
★加藤常昭先生が大変興味深い設定をしておられました。それは、マルコ10章17節に登場する「富める青年」と「使徒パウロ」が出会うという出来事です。★富める青年は「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」との言葉を主イェスから聞くと「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った」のです。なぜなら彼は「たくさんの資産を持っていたから」です。これに対し、パウロには次の言葉があります。(06)熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。(07)しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。(08)わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。この両者が出会うのです。★この設定だけを拝借して両者の出会いを想像してみました。皆様にも自由に想像していただきたいのですが、私が思い至った一つのことは、この二人には決定的な相違があることです。富める青年が出会ったイエスは、十字架刑による死と復活の出来事を迎える前のイエスであり、使徒パウロが出会ったのは、それらの出来事の後の復活のイエスであるということです。★パウロの証しとその言葉をこの富める青年はどう聞くのでしょうか?

恵みの働きは「甘やかし」ではない

pcd10028
★パウロはローマ人への手紙第8章で以下のように語っています。(26)御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。(27)そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。★ここには、キリスト者の為になされる「御霊による執り成しの祈り」のことが語られています。キリスト者によっては、この言葉により、主なる神様の恵みの働きは、キリスト者を「甘やかす」のではないかと誤解するかもしれませんが、そうではありません。パウロ自身が述べていますように、御霊が行うのは「神の御旨にかなうとりなし」であって、その時、キリスト者個人の側が必要だと考えている事柄が与えられるようにと執り成されるわけではないのです。★主なる神様の側が「主権を持っておられる」というこの事実に対して、いじけたり、すねたりするとしたら、それは、わたしたちキリスト者の側の人格が「成長する要素を抱えている」ことを示すわけです。★主なる神様の「主権性」は、わたしたち信仰者の知性の中に収めきれるものではありませんし、仮に収まっていると思えたとしたなら、それこそ、主に祈り求めていたことが「神の御旨にかなっていた」ということに過ぎません。★恵みの働きは「甘やかし」ではなく、キリスト者の人格を成長させ、更なる成熟へと導く働きなのです。

私は聖霊を信じます

pcd11019
★私達キリスト者は、使徒信条によって、聖霊に関して次のように告白しています。文語では「我は聖霊を信ず」、口語では「私は聖霊を信じます」。★この告白を主イエスに関する内容と比較しますと、大変短いものに思えます。しかし、文章というものは、次に続く文章と内容が関係しているか、関係していないかのいずれかです。つまり、「私は聖霊を信じます」というこの告白は以下に続く言葉と関係があるのかどうかと問うことが必要です。★「私は聖霊を信じます」という言葉に続くのは「きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。」という言葉です。これらの言葉一つ一つは聖霊と関係しているのでしょうか?★この問いに対する答えは解釈者によって異なるようにも思えます。私としては、続く全ての事柄を信じ得るのは「聖霊の働きによって」であると考えます。ですから、説明的になりますが、使徒信条の最後の部分は「聖霊を信じるから、きよい公同の教会を信じることができ、聖徒の交わりを信じることができ、罪のゆるしを信じることができ、からだのよみがえりを信じることができ、永遠のいのちを信じることができる」という一つのかたまりを形成していると解釈します。★この解釈に立ちますので、「聖霊(の働き)」無しでキリスト教の宣教は一歩も進まないと信じています。極端な言い方に聞こえますが、敢て言いますと、人間的な条件が完璧に整えられていなくても、「聖霊(の働き)」があるなら宣教の働きは進むのです。★「私は聖霊を信じます」。この言葉を心から信じ告白している教会には、確実にキリストの命が宿っているのです。

主イェスによって霊の目を開いていたただくために

pcd11048
★ヨハネが伝えた次の記事は大変有名です。(1)イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。(2)弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。(3)イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。★有名な3節の言葉に後ろ髪を引かれながら、この出来事の最後に目を向けます。(39)そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。(40)そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。(41)イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」。★文脈から導かれる解釈がずれていなければ、この「パリサイ人たち」は「生れつき、霊的に盲人である」となります。主イェスはこう主張されました。(4)「わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。(5)わたしは、この世にいる間は、世の光である」。光を光と認識できるためには「目が見えて」いなければなりません。ところが、「パリサイ人たち」は、主イェスを「光」と認識できていないのです。このように、誰であれ、主イェスを「世の光」と認識できないなら、自分が「生れつき、霊的に盲人である」ということを示してしまうのです。
RapidWeaver Icon

Made in RapidWeaver