牧師のページ

御言葉の真実に触れる体験

★「静まって御言葉を読み、その御言葉の語るメッセージを思い巡らし、そのメッセージを自分自身の現実生活に適用する。」このことを、朝ごとに、毎日行えば、福音派の伝統であるデボーションとなります。★「朝ごとに、毎日」と聞きますと、なにやら、律法的・義務的に実践する事柄のように聞こえてしまいますが、そうではありません。多くのキリスト者がご存知のように、デボーションを律法的・義務的に実践しても、決して楽しくはありません。しかし、このデボーションが正しい意味で機能し始めますと、即ち、デボーションの持つ力が体験され始めますと、律法的とか義務的という言葉を越えた何かが自分をデボーションに向かわしめることに気付かされます。ですから、「朝ごとに、毎日」という言葉に縛られることなく、「まず、静まって御言葉を読む」ところから始めてみましょう。★かく言う私は、全くデボーションの達人ではありません。しかし、「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。」という御言葉に出会う時、それも、まさに今ここで、私にとって必要な言葉として出会う時、インマヌエルの主が、確かに、わたしにも共にいてくださると実感されるのです。

宣教の働きをやめない

★使徒パウロは、エペソ書の中で異邦人即ち真の神を知らない人間の歩みを次のように表現している。「あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。」★異邦人である日本人の一人として心地よい文章ではない。思いを静めて、パウロのこの言葉に耳を傾けていれば、「むなしい心」の内実とは、自らの持つ「知力が暗くなり」結果的に「神のいのちから遠く離れ」ているという事実にある。同時に、具体的な現象面は、この本質的な事実の現れであるとなる。★続いてパウロはキリスト者に向けてこう語る。「あなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」★この言葉の中心点は「古き人を脱ぎ捨て」、「新しき人を着る」ことである。そしてそのことを可能にするのは「心の深みまで新たにされ」るというこの点にある。そして恐らく、心の深みまで新たにされることの出発点は、自らの「知力」の再生である。その再生された知力をもってキリスト・イエスのみ声を聞くことから全てが始る。時が良くても悪くても、宣教の働きをやめるわけにはいかない。

天地で相呼応する喜び

★今年もまた、玉川聖学院のJ1オリエンテーションキャンプで、ご奉仕させていただきました。二日目の食事の席でのことです。K先生がニコニコしながら一つの話しを始められました。話題は、一人の卒業生のことでした。なんとその方は卒業後ミッション系の大学に進み、キリスト者となり、現在別のミッションスクールの宗教部で責任者になっているとのことでした。1992年以来奉仕の場を与えられている私にとっても大きな喜びでした。なぜなら、私が奉仕をさせていただいた初期の頃の学生の一人だったからです。この会話をしていたK先生も私も満面笑みであったにちがいありません。★ミッションスクールの先生達は牧師や伝道者ではありません。あくまでも、一人の教師として担当教科を教える責任があります。しかし、そのような働きをしつつも、生徒の一人一人がどこかで創造主なる神と出会い、主イエスを信じてくれることを期待しているのです。ですから、そのような先生達にとって、卒業した教え子の誰か一人がキリスト者になったというニュースを聞けば、躍り上がらんばかりの喜びが沸き上がるのです。この喜びは天地で相呼応します。★「また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう(ルカによる福音書第15章8節〜10節)」。

信仰生活の基本中の基本

★詩篇119篇の中の「コフ」にこうあります。
[145]わたしは心をつくして呼ばわります。主よ、お答えください。わたしはあなたの定めを守ります。
[146]わたしはあなたに呼ばわります。わたしをお救いください。わたしはあなたのあかしを守ります。
[147]わたしは朝早く起き出て呼ばわります。わたしはみ言葉によって望みをいだくのです。
[148]わが目は夜警の交代する時に先だってさめ、あなたの約束を深く思います。
[149]あなたのいつくしみにしたがって、わが声を聞いてください。主よ、あなたの公義にしたがって、わたしを生かしてください。
★読まれてすぐに気付かれると思いますが、この詩人は三度「呼ばわります」と語っています。また「わが声を聞いてください」と語っています。早朝に、主なる神様に向けて、一人祈る、詩人の姿が目に浮かびます。この祈りの姿勢からは、詩人の執拗さではなく真剣さが伝わってきます。★「定め」、「あかし」とありますが、これらは「み言葉」や「あなたの約束」という言葉と同じです。その意味する所は、当時の詩人にとっての「主なる神様の口から出た言葉」です。★主なる神様に対して祈ることと、主なる神様の口から出た言葉を聞くことが信仰生活の基本中の基本、信仰の生命線であることが分かります。どんな時でも、基本に忠実でありたいと願わされます。
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