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キリスト教信仰の持つ動的な働き

★ヘブル人への手紙第11章1節を口語訳、新改訳第3版、新共同訳、新改訳2017、聖書協会共同訳の順番で引用します。出だしの言葉は省略します。
(01)信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
(01)信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
(01)信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
(01)信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
(01)信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。
★前半の言葉を読んで気づきますように、聖書協会共同訳が他の翻訳と異なっています。そこで、ここに使われている言葉を釈義事典で調べてみました。事典によりますと、この言葉は元来「下に横たわるもの」「基盤」を意味するそうです。★そこで、元来の意味を直接入れて読んでみます。口語訳を用いますと「信仰とは、望んでいる事がらの基盤であり…」となります。このように読みますと「望んでいる事がら」が「信仰」によって支えられているイメージが浮かんで来ます。★この第11章1節の言葉は、キリスト者が行動を起こす時に背中を「ポン」と押してくれる言葉であると感じ取っていましたが、これで、私の心が「なるほど」と納得できました。★キリスト教信仰は、もちろん、私たちを「常に」駆り立てるような働きをするのではありませんが、全く身動きが取れず、途方にくれてしまっている時に「大丈夫だから、行動してごらん」と語りかけ、私たちを次なるステップへと導く働きをするのです。

常にある「創造主なる神の支配」という「もう一つの現実」

★10月30日の主日礼拝では塚本良樹師が説教してくださいました。その説教題は「もう一つの現実」でした。★現代人でも「目には見えませんが、もう一つの現実として霊的な領域領域があります」という言葉を聞いた時、基本的に拒絶的な態度をお取りになられる方々は少ないと考えています。もちろん断固とした無神論者の方々はいらっしゃいますが…。私としては、聖書の啓示から、これは「わたしたち人間が、神のかたちに創造されている」結果であると語ることが出来ます。★主イェスは次のように語られました。「しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。(ルカ11:20)」ここで語られている「神の国」は「神の支配」と解釈されていますが、歴史的な時間系列から聞き取りますと「今はまだ」と考えている「神の国」が「今すでに」ここにあるという啓示です。この表現は「将来が今ここにある」という終末論の視点であることが分かります。★また主イェスはこうも語られました。「イエスは彼らに答えられた、『わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである』(ヨハネ5:17)」この言葉を同じく歴史的な時間系列から聞き取りますと、「わたしの父は、創造の御業を開始した時から今に至るまで働いておられる」という啓示であり、この表現は創造論の視点です。★終末論の視点であれ創造論の視点であれ、聖書は、人間に対して「創造主なる神の支配」という「もう一つの現実」が「常にある」ことを啓示しているのです。

信仰の模範が持つ「パラドックス」

◆ルターが語る次の言葉をきいてください。◇昔の聖徒たちがもっていた偉大な並外れた強さやその他の美徳の模範より、彼らの弱さの実例の方が私たちにとって必要であり、またさらに多くの慰めを与えてくれる。◇それはちょうど、ダビデがゴリアテや熊、ライオンを殺したという話によって、私はあまり向上させられないのと同様である。なぜなら、このような勇者のような行動については、私の力も思いもみな圧倒されてしまうので、私は彼の後に従うことができないからである。◇こう言うのも、このような偉大な行為によって、聖徒たちは、彼らが勇敢な英雄としてもっていた力や強さのために賞賛されているからである。◇しかし、私は、ダビデのもっていた嘆きやため息、恐れやためらいなどを読むときのように、聖徒の弱さや罪、恐れや試練の例が私たちの前にさし示されると、とても勇気づけられ、大いに慰められる。なぜなら、そこに私は、彼らがどのようにためらい恐れながら、破滅せず、命を落とさず、その約束によって立ち上がり、自分を励ましたかを見るからである。そのようにして、私もまた、ためらうべきではないと決心するのである。◆いにしえの信仰者たちに対するこのルターの思いに同感できるなら、全く同様に、今の時代の信仰者たちに対しても同じ思いで考えることの方が自然ですね。
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