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正しい意味で全知の神を恐れよう

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★今朝はダビデ王が行った悪(罪)を思い起こします。大変有名な出来事で、ダビデに限らず王という地位を持った人物であるがゆえに行い得る悪(罪)です。★(12)ダビデはウリヤに言った、「きょうも、ここにとどまりなさい。わたしはあす、あなたを去らせましょう」。そこでウリヤはその日と次の日エルサレムにとどまった。(13)ダビデは彼を招いて自分の前で食い飲みさせ、彼を酔わせた。夕暮になって彼は出ていって、その床に、主君の家来たちと共に寝た。そして自分の家には下って行かなかった。(14)朝になってダビデはヨアブにあてた手紙を書き、ウリヤの手に託してそれを送った。(15)彼はその手紙に、「あなたがたはウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼の後から退いて、彼を討死させよ」と書いた。(16)ヨアブは町を囲んでいたので、勇士たちがいると知っていた場所にウリヤを置いた。(17)町の人々が出てきてヨアブと戦ったので、民のうち、ダビデの家来たちにも、倒れるものがあり、ヘテびとウリヤも死んだ。(18)ヨアブは人をつかわして戦いのことをつぶさにダビデに告げた。★旧約聖書が「ダビデとヨアブとの二人しか知らない」このような記事を記録できている理由を考えますと、それはイスラエルに、主なる神様から「言葉」を預って語る預言者がいたからだ、と考えられます。実際預言者ナタンが主なる神様よりこの出来事の真相を受け取った後ダビデ王の所へ遣わされました。★ここに聖書が私たちに与えられていることの意味の一つが明確にされています。聖書は、私たちが真に恐れなければならない御方が誰であるのかを「あらかじめ」啓示しているのです。

「律法」の位置づけ

pcd07008
★パウロが律法について語っている箇所に次のように書き記されています。
(17)…神によってあらかじめ立てられた契約 (→アブラハム契約) が、四百三十年の後にできた律法 (→十戒等) によって破棄されて、その約束 (→アブラハム契約の中に書き記された約束の内容) がむなしくなるようなことはない。
(18)もし相続が、律法 (→十戒等) に基いてなされるとすれば、もはや約束に基いたものではない。ところが事実、神は約束によって、相続の恵みをアブラハムに賜わったのである。
(22)…約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。
(23)しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで(罪の下に)閉じ込められていた。
(24)このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。
★私の聖書解釈では、このパウロの議論は、人が「信仰(→恵み)」によって「アブラハムの子孫」とされること、即ち(民族的表現を外せば)「神の子」とされるために「律法」が「結果的に」、「わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となった」という意味です。つまり、「律法」本来の働きが、最初から「キリストに連れて行く養育掛」であったわけではない、ということです。★私の「律法」理解は、「文化(歴史)形成命令」を実行するための法である、というものです。

ヨブがささげる燔祭に示される(父)親としての愛

pcd09062
★ヨブ記には、ヨブの父親としての姿を記している箇所があります。
[01]ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。[02]彼に男の子七人と女の子三人があり…[04]そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。[05]そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。
★注目したいのは、ヨブが、子供たちのために、子供たちに代わって、子ども達の罪のために燔祭を捧げているという行為です。新聖書注解の判断によれば、この時レビ記の規定はまだなかったとしていまが、この燔祭は「贖罪」を目的としていることは明らかです。★ヨブのこの行為は、大きく考えれば、「神を恐れる」ヨブにとって、子供たちの中に「神を恐れない子供」があり、その罪の結果がその子に帰することを回避したいという親の愛から出ていると言えます。三人の子どもを託された父親である自分を省みる時、このヨブの姿勢にほど遠いことを痛切に感じます。そのように感じ取りつつ、同時に考えることは「それでは、今後、自分は何をするのか?」ということです。★「転換が早過ぎる」という声も上がるでしょうが、心理的な懲罰を延々と繰り返すよりも、主イェスにおいて啓示されている、父なる神による贖罪(=愛)に心を向けることなのだと信じます。
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