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自ら考え判断するという手順は省けない

★今日考えるのは次の言葉です。「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。」★この言葉の少し先にこうあります。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」★後に続いた言葉から判断しますと、イエスの名によって預言することや、イエスの名によって悪霊を追い出したり、イエスの名によって力あるわざを行うことが出きることが、偽預言者を見分ける実とは必ずしもならないことが分かります。ここで言う「預言する」とは、神の言葉を預かって語る働きと理解されますが、現代の解釈では、説教も含みます。★そうしますと、逆に言えば、偽預言者が堂々と説教し、悪霊を追い出し、力ある業を行っていることもあり得るのです。★それでは見分ける実とは一体何なのでしょうか?両者の言葉に挟まれて、「天にいますわが父の御旨を行う者」という言葉があります。つまり、「天にいますわが父の御旨を行う」という「実」がそれだとなります。★やはり、自ら主なる神様の言葉と向き合い、父の御旨とは何かと考え、判断するという生き方が求められています。

見いだす者が少ない


★今日は、「狭い門からはいれ。」と語られた主イエスの言葉の二回目です。この言葉の最後は「それ(命にいたる門)を見いだす者が少ない。」となっています。なぜ、「命にいたる門」を見いだす者が少ないのでしょうか。論理的に考えれば、見いだす者が少ないのは、見つけにくいからだ、となります。それでは、なぜ、見つけにくいのでしょうか。★ここからは、大きく二つに理由が分かれます。第一の理由は、それが「命にいたる門」のようには見えないからである、となります。第二の理由は、それを「命にいたる門」としては受け入れにくいからである、となります。★そこでしばし静まって、この両者の理由を思い巡らしてみましょう。そうしますと、第一の理由は、「ここが命の門ですよ」と丁寧に説明してもらえば回避できる問題です。ところが、第二の理由は単純ではありません。知的に「ここが命の門である」と了解することと、それを「受け入れる」という選択と決断の問題は別物だからです。★「私は罪人です。」、「罪のもたらす結果は、永遠の滅びです。」、「善行を積み上げることによって、悪行を帳消しにすることはできません。ましてや、救いを手に入れることは出来ません。」、「イエスの十字架刑は私の罪を贖うためでした。」、「イエスが私の罪の贖いとして死んでくださったことを受れ入れ、イエスを救い主として受け入れます。」、「イエスを救い主として受け入れて与えられる、永遠の命を信じます。」、まだまだあります。★これらの言葉の一つ一つを心から告白するためには、私たちの心は本当に低くされなければなりません。見いだす者が少ない一番の理由は、恐らく、このことです。

狭い門から入れ


★今日は、この言葉です。「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」とても鮮やかなコントラストです。★既に語りましたように、大きな文脈で言えば、「まず神の国と神の義を求めよ」と始まり「求めよ、捜せ、門をたたけ」と続き「狭い門からはいれ」となっています。この大きな文脈に基いて考えれば、この一連の段落の主題は「神の国」と解釈することが出来ます。この解釈に立ちますと、命にいたる門とは「神の国」にいたる門となります。今日はこちらの門に焦点を当てます。★そうしますと次に確認することは、狭い門と神の国の位置関係です。主イエスの言葉によれば、まず狭い門があり、続く道も狭く、その狭い道を通って神の国に到達するというイメージになります。★それでは、ここで言う「狭さ」とはいったい何を意味するのでしょうか?この問に対する現実的な答えは数多くあります。それはそれとして、今日は原理的な答えを考えます。他の福音書に記された主イエスの言葉によれば、主イエスは「わたしは門である。」と語っておられます。また「わたしは道であり、真理であり、命である。」とも語っておられます。と言うことは、聖霊によって身ごもったマリアから生まれ、十字架刑によって殺され、しかし、三日目に復活し、天に昇り、最終的な裁きの時再臨されるイエスの持つ狭さだと考えられます。つまり、イエスという一人の人格に全てがかかっているという狭さとも言い換えられます。★ヘブル書の著者と共に、「イエスを仰ぎ見つつ、走ろう」です。

黄金律


★「黄金律」の三回目です。「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」今日はこれまでとは異なり、この黄金律をごく一般的な視点から考えます。★そうしますと、この黄金律を生きる際に、常に心に止めておく必要のある、一つの現実があります。その現実とは、この黄金律を生きてみればすぐにわかることです。それは、「人々からしてほしいと望むことを、人々にもそのとおりにしても、全てのことが人々に受け入れられるわけではない。」という現実です。★この「受け入れられるわけではない」という言葉を、「感謝されるわけではない」とか「喜ばれるわけではない」と言い替えることも出来ます。★「何事でも人々からしてほしいと望むこと」に対して、わざわざ悪意ある事柄を当てはめ且つ実践することは、始めから前提されていないと読むのが自然ですから、黄金律に従って私たちが考えることは「良きこと」なはずであります。にもかかわらず、現実には「感謝されるわけではない」、「喜ばれるわけではない」ということが起こるのです。★しかしその時に、「これが律法であり預言者である。」という言葉が輝きます。「律法であり預言者である」とは、主なる神様の御旨であると言い替えることが出来ます。つまり、「相手の出方に係わらず、黄金律を生き続けよ!」ということです。なぜなら、主なる神様こそが、私たちの忘恩にもかかわらず、求める私たちに対して、最善のものを備えてくださることを止めないからであります。
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