March 2018
キリスト者にとっての「大前提」②
25/03/18 00:00
★人間の持つ自然の理性は、「聖書の神は『三位一体』の神である」という啓示をなかなか受け入れることができません。その背景にあるのは「人間の思考」です。★それなら「人間の思考」が完全に研究し尽くされているのかと言えば、そうではないのです。研究し尽くせない根本的な理由は「人間の思考を研究するのが人間自身である」という点にあります。研究対象を客観化できないということです。★その結果、一般に「1+1=2」という数式は「人間の思考」が客観的に確認できる絶対的真理であると考えられてしまいます(実際は大前提として信じられているだけです)。ですから、「三」であって同時に「一」であるなどということはあり得ないと結論することになります。★これに対して、「私の思考」が聖書の啓示に従うなら(大前提)、「私の思考」はまず、聖書の神が、存在するもの全てを創造されたことと、聖書の神の「存在の仕方」は「三位一体」である、と理解することになります。次に「私の思考」は「三位一体」の神によって創造されたこの被造世界の中に、聖書の神の「存在の仕方」である「三位一体」が反映されているはずだと考えます。★この出発点に立ち「一」が「統一性」を啓示し「三」が「多様性」を啓示すると考えてみましょう(適用)。そうしますと、「私の思考」は、聖書の神にあっては、「統一性」と「多様性」が同時に矛盾無く成り立っていると考えます。と同時に、「私の思考」は、聖書の神は私に対して「被造世界にあっては、『統一性』と『多様性』とが可能な限り調和できるように管理しなさい」と求めておられるのだ、と考えます。この思考は、私にとって納得ができます。
被造世界の管理者として、部分的ではあっても“義”を生きる
18/03/18 00:00
★今日は「主イェスという御方(存在)が神の義(完全な義)であった」という判断から、この世において、私達が「義」を生きることを、どのように考えたら良いのかを述べたいと思います。★抽象的な表現ですが、日本においても「社会正義」が揺らいでいます。キリスト者を含めた私達(罪人)は「神のかたち」に創造されている自分を「義しく」生かすことが出来ないのです。★主イェス(の存在)と「完全な義(社会正義を含む)」とを類比的に考えてみましょう。主イェスはこの世の歴史の中で、人間の手によって殺されました。類比的に言えば「完全な義」が殺されたのです。しかし、新約聖書の啓示から明らかなように、主イェスは「死から復活」され「天」に帰られました。つまり「完全な義」は人間の手によって抹殺できなかったのです。★主イェスは来るべき時に「再臨」されます。つまり、「完全な義」が支配するのは主イェスが再臨された後の世(神の国)に於いてです。★ですから「完全な義」が目の前にないため、私達キリスト者も、意気消沈してしまいます。しかし、この世にあって「義を求めて生きる」ことは無駄ではないのです。「義」を生きる根拠としての「完全な義」が「今」は目に見えない「天」にあります。時が来れば、全ての人は復活し、審判に臨み「完全な義」が人間を含めた全被造物に対して明白になります。今の私達に引きつければ、「部分的」ではあっても「義」を放棄せずに生きていて良かったと確認できる時です。★繰り返します。この世において愚かに見えても「義」を生きることです。「義」を生きる根拠としての「完全な義」が「今」は目に見えない「天」にあるだけのことです。
「一般恩恵」と「特別恩恵」
04/03/18 00:00
★私たちの教会では「天国と神の国は違います」という言葉を牧師の口から聞くことが多くあります。あるいは、「私たちの生きているこの世界は完成を目指している」とか「歴史が完成する時、神の国が登場する」という類いの言葉も聞きます。★マタイ5:43~45にこう記されています。「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」★この最後の言葉「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである」は、キリスト教の専門用語で「一般恩恵(一般的な恵み)」と言います。★この言葉が伝えているのは、主なる神様による「一般的な恵み」は、キリスト教を否定したり、キリスト者を迫害する者達の上にも臨むということです。大変乱暴な言い方になりますが、主なる神様がそのようになさる最も中心的な理由は、恐らく、主なる神様ご自身が開始された創造の御業を完成に至らせる為に、主なる神様は「存在を与えられた被造物の全て」を摂理的にお用いになられるからです。★このように考えますと、主なる神様が願っておられるのは、私達罪人が、「一般的な恵み」の中に生かされている間に、「主イェスによって罪を贖われ、神の国に復活する」という「特別恩恵(特別な恵み)」を受け取ることなのだと強く思わされます。