キリスト者は、信仰によって義とされているので、義の実を結ぶことを目指すのです。
(24)あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。
(25)しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。
(26)そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。
(27)すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。
★この箇所にはキリスト者が現実生活に適用すべき(必然)原理が語られています。第一には「(24)賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように」ということです。この言葉の意味する事は「(26)目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。」という事です。第二には「(25)わたしたちは朽ちない冠を得るために節制する」ということです。この言葉の意味する事は「(27)自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。」という事です。★キリスト者は「死のからだ」であるが故に「原理的に既に神の国に入っているのだから、神の国の住人に相応しい者となる」事を真剣に目指すのです。
「管理責任」があれば「管理報告の時」もある
「創造の契約」の中に「被造世界の管理責任」が位置づけられる
[19]主の言葉はエレミヤに臨んだ、
[20]「主はこう仰せられる、もしあなたがたが、昼と結んだわたしの契約を破り、また夜と結んだわたしの契約を破り、昼と夜が定められた時に来ないようにすることができるならば、
[21]しもべダビデとわたしが結んだ契約もまた破れ、彼はその位に座して王となる子を与えられない。またわたしがわたしに仕えるレビびとである祭司に立てた契約も破れる。
[22]天の星は数えることができず、浜の砂は量ることができない。そのようにわたしは、しもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビびとである祭司の数を増そう」。
★旧約聖書内にある契約をご存知なら、この「主」の言葉の中には「ダビデ契約」、「塩の契約」、「アブラハム契約」があることが分かります。そして同時に、その気づきに基づくなら「昼と結んだわたしの契約」という言葉から、創造の時に、主なる神様が個々の被造物と結んだ「創造の契約」も語られていると解釈できるのではないでしょうか。★その解釈に立って「創造の契約」を前提すれば、創世記第1章26~28節の内容は「創造の契約」における、人間に対する契約条項と解釈することが出来るわけです。★このように「被造世界の管理責任」は主なる神様との契約関係に根拠があるのです。