牧師のページ

“そうせざるを得ない”という内なる力は外側から来る

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★使徒パウロが自らの体験を語る箇所の中で、私の心を強く捕らえる箇所があります第二コリント第11章2329節です
[23]彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。[24]ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、[25]ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。[26]幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、[27]労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。[28]なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。[29]だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。
★キリスト者である私の中には「使徒パウロがこれらの苦難を体験することがないようにと何故主は働かれなかったのか」と問う思いがあります。そのことを思い巡らしている中で気付かされたのは28節、29節の記述から浮かび上がってくるパウロの心の姿勢です。人間的に言えば、パウロの心は全く福音に捉えられており、その心は、何としてでもこの福音を伝えたいという熱い願いに満ち、突き動かされている、ということです。★苦難を推奨しているわけではありません。信仰的に言えば、これが、聖霊なる神が「人」を用いて働かれる時の実例なのだと考えます。

悲しむことよりも怒ることを優先させる“私”に対して

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悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。(マタイ5:4)
ルターはこの言葉の実践的適用として、次のように語ります。「今はこの世が笑って、その欲望と気まぐれによって、贅沢な暮らしをするがままにしておきなさい。そして、もし、あなたが嘆き悲しみ、日々あなたの心を悲しませるものを見なければならないなら、この御言葉によって耐え、自分を支えなさい。」★この言葉に導かれて、私には詩篇37篇が提示されています。
[01]悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。[02]彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。[03]主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。[04]主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。[05]あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、[06]あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。[07]主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。[08]怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。[09]悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。
★「怒りと憤り」の故に「神の御旨を脇に置いてしまう」ことは、「慢心」の故に「神を脇に置いてしまう」ことに等しいと聴き取りました。主なる神様は私に対して、このことを心せよと語っておられるのだと思います。

エゼキエル書第34章の預言から、主イェスをダビデの子と信じる

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★9/9の主日、マルコによる福音書第12章から講解しましたが、主イェスの登場が「ダビデの子」の登場であるということを、エゼキエル書第34章の預言の言葉から確認しました。今日のこのコラムでは、次回のための準備として、同書第34章16節23節から中心点を取り上げておきます。★「わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す」と主なる神様が語られた理由は、当時のイスラエルの民の指導者達が腐敗していたからだと確認し、そのことを下敷きとして、主イェスが当時の霊的指導者であった律法学者たちを批判した理由を読み解きました。★次回は、16節の後半を下敷きにします。(16)わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。この言葉の後半を拾えば「わたしは、肥えたものと強いものとは、これを監督する。」とあります。これが、23節で「わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。」と語られる「主のしもべダビデ」の働きです。★このことから、同書第34章をメシヤ預言と読むなら、「ダビデの子」が登場した時には、神の国の先取りとして、17節に語られているように、「主のしもべダビデ」によって「あなたがた、わが群れよ、見よ、わたしは羊と羊との間、雄羊と雄やぎとの間をさばく。」ということが起きるということです。★主イェスの行為がそのように解釈できるなら幸いです。

「選び」が無条件の恵みであると受け止められるまで

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★使徒パウロの言葉を聞いてください。エペソ第1章35節です。
[03]ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、[04]みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、[05]わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
★コラムという限られた字数の中で論じるのは愚かですが、舌足らずになることを覚悟して語ります。この言葉を読んですぐに気付かされるのは4節のこの言葉です。「天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び…」★大きな言い方をしますが、知的な現代人が一番受け入れ難いのは、自分という存在を支配する存在が自分の外側にいる、ということでしょう。ですから、宗教を認める人たちでも、人間の自由意志を否定する言葉には必ず反発します。★ところが、驚くべき事に、パウロのこの言葉が語るのは、「選び」であります。キリスト教信仰を持った人たちの中でも、この「選び」の啓示に対しては、この啓示を受け入れるか受け入れないかで、立場の異なる教派を生むという結果を生みました。★そのことをふまえつつ、口うるさく述べますが、私たちには「旧新両約聖書」という、翻訳ではありますが記述された、主なる神様からの言葉が与えられており、いつでも読むことが出来ます。この言葉に聞くことなく、この言葉から離れて「選び」の啓示を考えるようにとはなっていないのです。
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