牧師のページ

「主」と「契約」によって結びつく者の幸い

★哀歌第3章(口語訳)に記された代名詞の主語が「主」であると理解しますと、作者エレミヤは次のように語っています。
[10]主はわたしに対して待ち伏せするくまのように、潜み隠れるししのように、[11]わが道を離れさせ、わたしを引き裂いて、見るかげもないみじめな者とし、[12]その弓を張って、わたしを矢の的のようにされた。[13]主はその箙の矢をわたしの心臓に打ち込まれた。[14]わたしはすべての民の物笑いとなり、ひねもす彼らの歌となった。[15]主はわたしを苦い物で飽かせ、にがよもぎをわたしに飲ませられた。[16]主は小石をもって、わたしの歯を砕き、灰の中にわたしをころがされた。[17]わが魂は平和を失い、わたしは幸福を忘れた。[18]そこでわたしは言った、「わが栄えはうせ去り、わたしが主に望むところのものもうせ去った」と。
★そのように語ったエレミヤが、次のように続けています。
[19]どうか、わが悩みと苦しみ、にがよもぎと胆汁とを心に留めてください。[20]わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる。
[21]しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。
[22]主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。
[23]これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。
[24]わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。
★ここに登場する「主のいつくしみあわれみ真実」とは「」の契約に対する態度を意味しています。契約に基づいて「」と結びついている者は絶望しないのです。

「換喩」─聖書解釈にとって重要な「比喩」

今日は、聖書解釈にとって重要な「比喩」の一つである「換喩」をお伝えします。「換喩」とは「全体」を言語的に表現するのではなく「その全体の中に属する一部分」に「全体を代表さて」表現することです。ですから、聖書解釈者は、記されているある「表現」を文字通りに解釈するのではなく、文脈から「換喩」の可能性を考え、その「一部分」は「全体を代表している」のではないかと考えて、解釈する必要があります。★代表的な例は「主の祈り」です。マタイによる福音書から引用すれば、私たちは「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」と祈っています。★この祈りを、文字通りにだけ解釈しますと、私たちキリスト者は「主の祈り」を通して、「日ごとの食物」だけを「きょうもお与えください」と、父なる神様に祈り求めていることになります。★ここで「わたしたちの日ごとの必要」を考えますと、必要なものは「食物」だけではありません。もっと多種多様なのものが必要です。ですから、それらの「必要」を全て祈り求めるとなると、具体的な言葉をもっと数多くねなければなりません。★しかし、この「食物」を「換喩」と解釈すれば、この場合の「食物」は「わたしたちの日ごとの必要全体の一部」となります。つまり、主イェスは「換喩」を用いて「主の祈り」を教えられたと解釈するわけです。そうしますと、私たちの側は「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」と祈りますが、主なる神様の側は「わたしたちの日ごとの必要の全て」が祈られていると聴き取ってくださるわけです

キリスト者の持つ「被造世界の管理責任」という言葉の意味について

★礼拝説教の中で使われる「被造世界の管理責任」という言葉の意味が少々分かりにくいとのお声をいただきました。そこで、今日はその意味を(ある程度)分かり易くお伝えしたいと思います。★私は団地の管理修繕委員をしておりますので「管理」という言葉は、大きく「必要なケア(手当て)を実施する」という意味です。私は自らの「所有する財産である団地」を「管理」しているわけです。同様に教会の「ワーキンググループペテロ」の働きは、教会が所有する教会堂という建物を「管理」している働きです。★キリスト者の場合、創造主を知るに至り、自分の身体も命も、親であることも、親でないことも、自分の能力も、社会的な役割(働き)も、それこそ、ありとあらゆることが、創造主から「委ねらているものである」と知るに至ります。★ですから、主から委ねられた自分自身の心身を健康に保つことは「管理」の範疇に入ります。子どもは主から委ねられた存在と考えますから、育児は「管理」の範疇に入ります。「食事を準備する」ことは、創造主から委ねられている身体の健康を保つ働きですから、日々の食卓の準備も、飲食店の働きも「管理」の範疇に入ります。★話を教会に戻せば、主から委ねられている教会堂を清掃すること、教会堂周りの雑草を抜くこと等に始まり、主なる神様を礼拝する礼拝式のために必要な全てのことに携わること、これら全てが「キリストの体である教会」を「管理」することになります。★そうしますと、詰まる所、隣人に挨拶をするというような小さな事を含め「創造主と自分自身と隣人を愛する」ことは全て「被造世界の管理責任」を果していることになります

キリスト者は「安心して落ち込んで良い」のだ

★今回は、個人的なことを書くことをお許しいただきたいと思います。私も66歳となり、体力的に疲れを感じやすくなっている自分に気づきます。思考力や記憶力が落ちていますし、集中力が持続せず、注意力も落ちています。心も疲れやすくなっているかもしれません。★そのような中「安心して落ち込みなさい」という言葉が、心の中に生まれてきました。「安心して落ち込んでよい」とは意外な言葉です。なぜこのような思いが心に生まれたのか、考えてみました。その時に思い至ったのが、イザヤ書第40章28節31節の言葉です。
[28]あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。
[29]弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。
[30]年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。
[31]しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。
★ここに記されている通り「わたしの神」は「とこしえの神であり、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることもない」のです。「わたしの神」は「弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる」のです。ここには「わたしの神」が「私」に「新たなる力」を「得させてくださる」との約束があるのです。★「神の約束は必ず成就する」のです。だから「安心して落ち込んでよい」のです。なるほど。
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