牧師のページ

「わたし」の苦難に意味があるとしたら…

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★加藤常昭先生が「伝道者として生きて、幾度、このパウロの言葉に慰められたことであろうか」と語る使徒パウロの言葉がこれです。「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。(Ⅱコリント4:812)」★先生は語ります。「途方に暮れることがあるのである。打ち倒されることがあるのである。惨めな思いで打ちひしがれることがあるのである。」先生の言葉は、「だが‥」と続きますが、ここで一旦言葉を止めることが重要なのだと思いました。★パウロにしろ加藤先生にしろ「だが」という言葉を語ることが出来る時に至るまで、ある一定期間、「言葉で表現された通りの状態」の中に「留まった」ということです。人間的に想像すれば、相当「しんどい」はずです。★ここで、「だが」以降を持ち出せば、「死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働く」とありますように、自分がその「しんどさ」を引き受けたのは「あなた(がた)」と呼ばれる人達に「いのち」が働くためだったという「目に見えない連続があった」のです。これは、キリスト者にのみ理解できる連続だと思います。

わたしが命のパンである

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★「五つのパンと2匹の魚」だけで五千人の成人男性を養った奇蹟は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの全福音書に記されている唯一の出来事です。★ヨハネによる福音書を読みますと、この出来事の後、主イェスは次のように語っておられます。「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」★この中で主イェスは、「わたしに来る者」は「決して飢えることがなく」、「決してかわくことがない」と語っておられます。この二つの言葉で主イェスはいったい何を語っておられるのでしょうか?「イエスを信じる者は、この世にあって食料難や飲料水不足に陥ることはない」と主イェスは語っておられるのでしょうか?★先の言葉の中で、主イェスがご自身と関連付けているのは、まず「マナ」です。そして同時に、荒野の各所でつぶやいた時に与えられた「水」だと思われます。そして、この二つのうち「マナ」に焦点を当てれば、出エジプト記には、次の記述があります。「イスラエルの人々は人の住む地に着くまで四十年の間マナを食べた。すなわち、彼らはカナンの地の境に至るまでマナを食べた。」この記述から分かる事は、「カナンの地」に入るまでマナが与えられたということです。★この出来事を下敷きにして主イェスの言葉を考えてみますと、主イェスが語っておられるのは、イエスに来る「わたしたち」は「約束の地=神の国」に到着するまで、決して「飢えることもかわくこともない」ということです。つまり、主イェスは、イエスに来る「わたしたち」を「確実」に「約束の地=神の国」へと連れて行って下さる!ということです。

「心をもつ者」である私たち

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★「折々のことば458」に次の言葉が紹介されていました。★「心をもつ者」として扱われることによって、またそのことだけによって、心は発生し成長するのだ。(下條信輔)◇乳児に、ペットに、「心」はあるか?この問いは間違っていると認知心理学者は言う。私が語りかけ、また私に語りかけてくる者として相手を扱うことの結果として、「心」は生まれてくる。だから「心」は脳における神経生理的な過程として分析されるより先に、交わりという場面で問われねばならないと。「まなざしの誕生」から。★私は、人間は「胎児の時」既に心を持っていると考える立場であることをお伝えした上で述べさせてもらいます。★私がこの認知心理学者の言葉から聞き取ったことは二つあります。第一は、人間相互を「私が語りかけ、また私に語りかけてくる存在」という視点で考えるということです。第二に、ですから「心」は、交わりを必要とするということです。★人格的な存在として創造されている私たち人間に対して、「自分と同じように自分の隣り人を愛しなさい」という律法を備えられた創造主の英知がこのような場面で確認できることは、言わば当たり前のことなのですが、逆に言えば、21世紀に生きる私たちが「神の口」から出たこの「言葉」を見失っているからだと考えます。★イエス・キリストの福音は、私たち一人一人を「心をもつ者」として扱ってくれます。そして、イエス・キリストの福音は、創造主と私たち人間の「交わりの回復」を目指していますし、同時に、私たち人間相互の「交わりの回復」をも目指しています。

主イェスご自身が働いておられる!

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★ピリポ・カイザリヤの地でなされペテロの信仰告白の言葉は「あなたこそ、生ける神の子キリストです」でありました。この告白に対して主イェスが次のように応じました。「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」★解釈上、キリスト教会で問われるのは「この岩」とは何を意味しているのか、ということです。カトリック教会の解釈として主流なのが「この岩」とは「弟子ペテロのことである」という解釈です。これに対してプロテスタント教会の解釈の主流は「この岩」とは「弟子ペテロの信仰告白のことである」という解釈です。★当然、どちらの解釈に立つのかによって、その意味する所は異なって来ますけれども、今朝主イェスのこの言葉を取り上げたのは、別の角度からこの言葉を聞き取りたいと考えたからです。ペテロに向けて語られた主イェスの言葉の中にある「主イェスご自身」に注目してみましょう。そうしますと、当たり前のことなのですが、主イェスは「わたしは…わたしの教会を建てよう。」と語っておられるのです。つまり「キリスト教会をお建てになるのは主イェスご自身である」ということです。★思い起こしましょう。歴史の中に登場した、使徒パウロも使徒ペテロも、数多くの「偉大な聖人たち」も「信仰の偉人たち」も全てその姿を消してしまいました。しかし、「キリストの教会は消えていない」のです。その理由はとても簡単です。昔も今も、「わたしは…わたしの教会を建てよう。」と語られた主イェスご自身が働いておられるのです!
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