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愛と恵みの主イエス・キリストが立っておられる

★日本民俗学の権威として知られている柳田国男氏の著書『先祖の話』によれば、日本人の多数は、もとは死後の世界を近く親しく思っていたと述べ、その理由として、次の四つをあげています。第一に、死してもこの国の中に、霊はとどまって遠くへは行かぬと考えたこと。第二に、顕幽二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭だけでなしに、いずれか一方のみの志によって、招き招かれることが、それほど困難でないように考えていたこと。第三に、生人の今わの時の念願が、死後には必ず達成するものと考えていたこと。第四に、これによって子孫のためにいろいろの計画を立てたのみか、さらに、再び三たび生れ代って、同じ事業を続けられるもののごとく考えた者が多かったこと。★柳田氏の上げた理由の第三と第四が非常に興味深いと思います。「今わの時の念願が、死後には必ず達成する」と考えたわけですから、究極、今わの時に、「再び生まれ変わって、地上でやり残したことを‥‥」と願うことは、当然の既決とも言えます。日本では、この考え方が、仏教と混合してしまうわけですが、キリスト教では、混合出来ませんでした。★この意味で言えば、キリスト教は民俗学が提示する日本人多数の心情と一致することが難しいように思えます。しかし、抽象的に言えば、少々乱暴ですが、あと一歩だとも言えます。死後の命は確実にあり、新天新地の下、再び、親しい者達と共に永遠に過ごす世界があること等々。ただ、その一歩を踏出すその場所に、人間側の功徳ではなく、愛と恵みの主イエス・キリストが立っておられるのです。

“忍耐”という品性

★ヤコブの手紙第1章2節~4節にこうあります。「(2)わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。(3)あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。(4)だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。」聖書の御言葉が如何に「実践的」であるかが了解される御言葉です。★聖書の言葉が私達の生きる現実を踏まえていない絵空事であると考える人達は別として、私達キリスト者にとっては、“主なる神様から与えられた命”を如何に生かすのかという課題を考える時、これらの珠玉の言葉は、まさに「わが足のともしび、わが道の光です」と言わざるを得ません。★この御言葉が伝えている事実を整理します。キリスト者といえども現実の生活の中では「いろいろな試練に会う」ということです。このことは避けて通れません。なぜなら、「いろいろな試練」には、主なる神様から与えられた目的があるからです。読んでの通りですが、その目的とは「信仰がためされることによって、忍耐が生み出される」からです。ということは、詰まる所、キリスト者の人格の中に「忍耐」という品性が必須であるという事になります。★私自身に当てはめてしまい恐縮ですが、この「忍耐」という品性が形作られる必要が日々ここかしこで示されています。この御言葉に従うなら、私としては、この課題を「非常に喜ばしいこと」と受け止めて取り組むことだとなります。「光は時にまぶしい!」とはグチそのものですが、進むべき方向を見事に指し示しています。
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