牧師のページ

「恵み」と「信仰」の関係を、人間の側から考えたなら

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★心理学者の河合隼雄先生は、私たちの心がある事を決める時、心の中に100個のボールが有ることをイメージして考えると分かりやすいと教えてくれました。例えば、夕食を和食にするか洋食にするか、決めるとします。そのような時、最終的に洋食と決めた場合、心の中は「49(和食)対51(洋食)」で決まっていると考えるのです。心の中は「0対100」ではなく、一個のボールの移動で「50対50」の均衡が崩れただけなのです。★このことをアブラハムの信仰に当てはめてみましょう。空の星を見て「主なる神様には可能である」と信じた時、彼の心の中は「51(可能)対49(不可能)」であったと推察することが出来ます。しかし、自らが100歳になり、神から「わたしは…彼女によって…ひとりの男の子を授けよう」と告げられた時は「1(可能)対99(不可能)」であったため、ひれ伏して笑い「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」と語ってしまったと推察できます。★信仰について言えば、アブラハム自身でもこの「1」を感じることができないのではないかと思います。しかし、聖書の神はこの「1」を拾って下さる神なのだと私は考えます。★「およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。」と語るパウロは旧約聖書を知らなかったわけではないと思います。この言葉は、パウロ自身が「1」を拾って下さるこの恵みの神様に拾われたからこその言葉だと解釈します。

キリスト者は被造世界を管理するという使命を自覚する

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★ある夜の祈祷会で話し合われたことを土台にして語ります。★東京五輪のボート・カヌー会場をめぐる問題に関することですが、「海の森」を会場とした場合、建設費用は当初約500億円であるとの数字が示されていました。しかし、小池都知事が「復興五輪」という言葉を用い、宮城県長沼ボート場の案を語り出し、これで予算を下げられるという話をしたとたん「海の森」を会場とした場合でも約200億円ほど減額できるという話が出てきました。そのことがそのままマスコミに取り上げられ、話が進んでいますが、私には五輪関係者の金銭に対する倫理感覚が全く理解できません。★そもそも、もし、小池百合子氏が都知事にならなかったなら、豊洲問題も、東京五輪の開催に必要な費用の問題も、これほどまで「ずさん」であるということが表面化したとは思えません。もちろん仮説に過ぎないことですが、もし会場見直しの話が持ち上がらなければ、減額できた200億円はいったい何処に行ったのでしょう?問題の本質は五輪関係者の金銭感覚が麻痺しているということなのでしょうか?それとも億単位のお金が動くオリンピックを利用して旨い汁を吸おうとする人達が背後で動いているということなのでしょうか?★世界の歴史が証明しています。社会の正義が乱れる時、悪が横行します。悪が横行する時、その被害を受けるのは、社会的弱者と呼ばれる人達です。★自分自身をも含めた社会に対して「何が正しく、何が間違っているのか」ということを誤魔化すことなく検証することは、被造世界を管理するという使命を再認識したキリスト者が取り組むべき事柄の一つです。

第6回日本伝道会議に参加して

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★今回の第6回日本伝道会議に出席した感触をご報告致します。主題講演を担当されたクリストファー・ライト師は、現代の福音主義に立つ教会が持つべき(必然の「べき」と私は解釈します。)宣教についての考え方やその考え方を実践に移す場合の基準となる考え方を明確に語って下さいました。★福音主義の中では現在「物語神学」という神学的アプローチに光が当たっており、私自身は言葉としてだけ知っていたのですが、ライト師の講演の内容は、明らかに、この視点で語られていると感じました。さらには「オープン神観(仮称)」なる考え方が福音主義陣営の中でも採用されつつあり、具体的な内容の理解と消化が求められていることも分かりました。★1986年に副牧師として就任して以来、私自身は、東京基督神学校で学んだ、創世記(旧約聖書)から黙示録(新約聖書)までを貫くのは「創造主なる神」と「人間を含む被造世界」が契約関係で結びついているという「契約神学」を土台として、コツコツと聖書を読んできました。その結果、聖書には、「創造」から「創造の完成(再創造)としての神の国」の到来に至る、という大きな歴史的な枠組みがあり、その大きな枠組みの中に、伝道(福音)と社会的責任(被造世界に対する管理責任)を考えるという二つの焦点があることを聞き取って来ました。★この30年かけての聞き取りは、「物語神学」そのものとは異なりますが、「物語神学」が視野に納めている聖書の啓示内容の理解と大変類似していると感じました。もちろん全く同じではありませんが。その意味では、聖書の啓示内容を誤りなく聞き取るためには、神学的な表現は別として、コツコツと忠実に聖書を読み重ねて行くことだと思わされました。
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