November 2014
主イェスの羊は主イェスを知っている
28/11/14 23:46

(14)わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。(15)それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
★この言葉に基づくなら、「主イェスの羊」は「主イェスを知っている」ということです。もちろん、顔見知りというような意味ではありません。これは宣教的な視点で表現することができます。教会の講壇等から、主イェスについて語られます。それは、説教でも、奨励でも、あかしでもよいのです。そうしますと、「主イェスの羊」は「主イェスを知っている」が故に、その言葉に応答するはずなのです。★この応答が、毎回の主日礼拝等の中で、「瞬時に起こる」とは考えませんが、時が来れば「必ずや起こる」と信じています。これは私の勝手な推論ですが、「主イェスの羊」であっても、罪人に変わりはありません。主イェスの言葉に反発し、時には無視し、「主イェスの羊」であるようには見えないはずです。しかし、時が来れば「主イェスの言葉」に捕えられるのです。★宣教の働きを根本的に支えるのは、この主イェスの言葉であると私は考えます。宣教の形式を「堅い・暗い」と評価する視点もわかりますが、本質は「主イェスの福音」が語られているかどうかではないかと‥‥。
私達の人格と愛(アガペー)
23/11/14 00:00

「なぜ、貧しい人たちの手に魚を与えるよりも、魚を捕る釣り竿を与えないのですか?そうしなければ、貧しい人たちはいつまでも貧しいままではないですか」
と尋ねられます。そこで、私は彼らに言いました。
「私が路上から連れて来る人たちは、釣り竿を持って立つことすらできないのです。ですから、今日、彼らに魚を与えます。そして、彼らが立ち上がれるようになったら、私は彼らをあなたのところへ送りましょう。そうしたら、今度はあなたが彼らに釣り竿を与えてください。それはあなたの仕事です。私には、今は、私の仕事をさせてください。」
★この言葉のやり取りは、とても意味深いものだと思います。結論を言えば、双方の主張は共に正しいと思います。双方共に、人間に対する深い信頼を前提しています。その前提とは、こうです。「人間は、本当の愛(アガペー)を愛として充分に享受する時、おのずから、愛に生きようと動き出します。」★この前提をもう少し細かく言い換えますと、次のように言えます。大変不思議なことですけれども、「本当の愛(アガペー)」は、人格(神のかたち)を成長させ、自立させ、いつしか愛に生きる人格を造り出し、決して人格を堕落させることはない、ということです。人間を堕落させるものは、常に、私達人間の内側に存在している罪です。
「キリストにある幼子」からの成長
16/11/14 00:00

「神の国」をもたらす御言を蒔く
02/11/14 00:00
