牧師のページ

主イェスの羊は主イェスを知っている

★主イェスの福音を伝える働きを進める上で、主イェスが語られた言葉の中で、大変“不思議”でかつ“ありがたい”言葉があります。これです。
(14)わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。(15)それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
★この言葉に基づくなら、「主イェスの羊」は「主イェスを知っている」ということです。もちろん、顔見知りというような意味ではありません。これは宣教的な視点で表現することができます。教会の講壇等から、主イェスについて語られます。それは、説教でも、奨励でも、あかしでもよいのです。そうしますと、「主イェスの羊」は「主イェスを知っている」が故に、その言葉に応答するはずなのです。★この応答が、毎回の主日礼拝等の中で、「瞬時に起こる」とは考えませんが、時が来れば「必ずや起こる」と信じています。これは私の勝手な推論ですが、「主イェスの羊」であっても、罪人に変わりはありません。主イェスの言葉に反発し、時には無視し、「主イェスの羊」であるようには見えないはずです。しかし、時が来れば「主イェスの言葉」に捕えられるのです。★宣教の働きを根本的に支えるのは、この主イェスの言葉であると私は考えます。宣教の形式を「堅い・暗い」と評価する視点もわかりますが、本質は「主イェスの福音」が語られているかどうかではないかと‥‥。

私達の人格と愛(アガペー)

★今朝は、人間が人格(神のかたち)に創造されたということの中心点を確認しましょう。まずマザー・テレサの言葉を紹介致します。
なぜ、貧しい人たちの手に魚を与えるよりも、魚を捕る釣り竿を与えないのですか?そうしなければ、貧しい人たちはいつまでも貧しいままではないですか
と尋ねられます。そこで、私は彼らに言いました。
私が路上から連れて来る人たちは、釣り竿を持って立つことすらできないのです。ですから、今日、彼らに魚を与えます。そして、彼らが立ち上がれるようになったら、私は彼らをあなたのところへ送りましょう。そうしたら、今度はあなたが彼らに釣り竿を与えてください。それはあなたの仕事です。私には、今は、私の仕事をさせてください。
★この言葉のやり取りは、とても意味深いものだと思います。結論を言えば、双方の主張は共に正しいと思います。双方共に、人間に対する深い信頼を前提しています。その前提とは、こうです。「
人間は、本当の愛(アガペー)を愛として充分に享受する時、おのずから、愛に生きようと動き出します。」★この前提をもう少し細かく言い換えますと、次のように言えます。大変不思議なことですけれども、「本当の愛(アガペー)」は、人格(神のかたち)を成長させ、自立させ、いつしか愛に生きる人格を造り出し、決して人格を堕落させることはない、ということです。人間を堕落させるものは、常に、私達人間の内側に存在している罪です。

「キリストにある幼子」からの成長

★今朝は、異邦人ナアマン将軍の姿から学びます。重い皮膚病であった将軍ナアマンは、北イスラエルの地から連れてきた一人の少女の助言に従い、その病を癒してもらうため、スリヤ王の親書を携えて北イスラエルにやって来ます。★預言者エリシャの下に出向いたナアマンはエリシャから次のように命令されます。「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」★この言葉を聞いたナアマンは「怒って」エリシャの下を去り言います。「わたしは、彼がきっとわたしのもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、…病をいやすのだろうと思った。」★この場面を読むたびに考えることは、異邦人ナアマンの思考です。何度も何度も繰り返して語りますが、ナアマンは自分自身の側で病の癒しをもたらす方法を決め込んでいます。そして、その方法とエリシャの提示した方法とが異なったので、「怒って」去ってしまいます。★ナアマンの思考方法とその思考の結果に基づいた行動は、心理学の視点で言えば「幼児的行動」そのものです。神学的に言えば、物事の善悪を決めるのは「私」だという、アダムとその妻がエデンの園において選び取った生き方の末路です。★このように、神学的に「罪」と判断される生き方とは、心理学的に言えば、自分が王(=神)であるという幼児性を生きてしまう態度の中に発現しているのです。この意味で自分自身を再吟味する時、自分の中にナアマンが生きていることが自覚できます。赦された罪人であるキリスト者は「キリストにある幼子」からの成長が期待されています。

「神の国」をもたらす御言を蒔く

★今朝は、主イェスが語られた「神の国」のたとえ話を取り上げます。最初はこれです。「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである。」読んでの通りですが、「神の国」は確実に拡大することが「種の生長」によって類比的に例証されています。★マルコはこの譬え話にもう一つの譬え話を続けています。「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる。」こちらは、「神の国」の拡大する大きさの伝達です。極く極く小さい「一粒のからし種」が、「大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほど」に大きくなることを伝えています。★常識的に判断して、前段の文脈から解釈すれば、「神の国」をもたらすものは、蒔かれた「御言(みことば)」です。また前段には「御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」とありますから、「神の国」の譬え話が伝えているのは、蒔かれた「御言」を受け入れる人達が必ず存在し、それも数多く存在するということです。もちろん、健全な解釈で言えば、この譬え話の成就は、世界規模です。とは言え、日本が除外されているわけではないと信じます。★約束の聖霊のとりなしに期待して、失望せず、コツコツと「御言葉の種」を蒔き続ける教会であり続けましょう。
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