May 2018
人は聖なる畏れを欠くことが出来る
27/05/18 00:00
★北王国イスラエルの七代目の王アハブが宮殿に隣接する土地を中々手に入れることが出来ないことを知った妻イゼベルが行ったことを再確認します。★(07)妻イゼベルは彼に言った、「あなたが今イスラエルを治めているのですか。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがエズレルびとナボテのぶどう畑をあなたにあげます」。(08)彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印をおして、ナボテと同じように、その町に住んでいる長老たちと身分の尊い人々に、その手紙を送った。(09)彼女はその手紙に書きしるした、「断食を布告して、ナボテを民のうちの高い所にすわらせ、(10)またふたりのよこしまな者を彼の前にすわらせ、そして彼を訴えて、『あなたは神と王とをのろった』と言わせなさい。こうして彼を引き出し、石で撃ち殺しなさい」。(11)その町の人々、すなわち、その町に住んでいる長老たちおよび身分の尊い人々は、イゼベルが言いつかわしたようにした。彼女が彼らに送った手紙に書きしるされていたように、(12)彼らは断食を布告して、ナボテを民のうちの高い所にすわらせた。(13)そしてふたりのよこしまな者がはいってきて、その前にすわり、そのよこしまな者たちが民の前でナボテを訴えて、「ナボテは神と王とをのろった」と言った。そこで人々は彼を町の外に引き出し、石で撃ち殺した。
★起きたことは単純です。時の権力者が、権力者に逆らわない人たちを用いて、権力者の前に全く無力な人物を殺し、自らの願望を実現した、ということです。★歴史が教える一つの事実は「権力者の罪をその時即座に検証することはできない」です。福音の意味を知ったキリスト者が理解するのは、創造主の御前で人生の決算が行われるということです。聖なる畏れの基本です。
★起きたことは単純です。時の権力者が、権力者に逆らわない人たちを用いて、権力者の前に全く無力な人物を殺し、自らの願望を実現した、ということです。★歴史が教える一つの事実は「権力者の罪をその時即座に検証することはできない」です。福音の意味を知ったキリスト者が理解するのは、創造主の御前で人生の決算が行われるということです。聖なる畏れの基本です。
“ペンテコステ”が示す意味
20/05/18 00:00
★今日は教会暦で言いますと「ペンテコステ(五旬節)」と呼ばれる日です。この呼び名とは別に、この日に起きた出来事に由来して「聖霊降臨日」と呼ばれます。★「ペンテコステ(五旬節)」とは本来何の日かと言いますと、旧約聖書の律法は「過越しの祭」の翌日から始まる「種入れぬパンの祭」の二日目から数えて50日目(五つの旬)を「七週の祭」と定めていました。「ペンテコステ」とはこの「七週の祭」の日なのです。★「七週の祭」が持つ意味は何かと言えば、大麦の収穫が終わり、続いて小麦の収穫が開始出来ることを主なる神様に感謝する祭です。ですから、この祭は「刈り入れの祭」とも呼ばれます。★ここからがこのコラムの主旨です。このような意味を持つ「ペンテコステ」の日に、主なる神様が、主イエスによって語られた約束に基づく「聖霊」を主イエスの弟子たちの上に「降臨させた」のです。そうしますと、この祭の意味(文脈)に沿って解釈すれば、「主なる神様は、聖霊を受けた主イエスの弟子達を用いて、収穫する働きを開始されたのだ」と解釈できます。この言葉の「収穫する」は比喩です。その意味は─主イエスが宣教開始時に語られた言葉に従えば─「神の国の民を集める」となります。★新約聖書の記述を中心に考えて「聖霊降臨日」は「キリスト教会の誕生の日」と言えますが、当然、私たちは旧約聖書の記述を含めます。そうしますと、「聖霊降臨日」は「終りの時」に行われる最終段階の収穫の開始です。その日以来、主なる神様は「終りの日」に向けて、聖霊を通して「神の国の民を集める」働きを継続しておられます。そして、全てのキリスト教会はこの働きを担っています。
“主を待ち望む”信仰姿勢について
06/05/18 00:00
★「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。(詩篇130篇5節)」この御言葉をもとにルターが語っています。(少々分かりやすくします。)☆神に目標を示し、時と方法を決め、自分にとって望ましいように神に向かって提案しようとする人々がいるものである。そして、彼らは、もし、それが自分の思い通りにならないと、意気消沈したり、ほかに助けを求めたりしたがる。実は、この人々は待ち望んでいないのである。☆彼らが主を待つのではなく、神が彼らを待ち、直ちに準備して、ちょうど彼らが思い描いていたような仕方で救うはずだと彼らは思っているのである。☆これに対し、主を待ち望む人々は、彼らは恵みを求めはするが、いつ、どのように、どこで、何によって神が彼らを救われるかについては、神の良い御心に委ねておくのだ。★このルターの言葉を聞いた後に、続く130篇6節に目を向けます。「わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。」★主を待ち望む人々は、恐らく何もしないわけではないのです。ただ、彼らは救いを疑わず、主の主権の許、際限もなく長い間であっても、そこでじっと待たされることを受け入れているのです。★このような信仰姿勢の背後には、この御言葉があると思います。「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」