August 2018
キリストの体である教会の成り立ち
26/08/18 00:00

☆あなたが、まだ弱さのある兄弟に会ったなら、このように考えなさい。私はこの兄弟の重荷を負わなければならない。彼がキリストを告白する限り、私は彼を見捨てるべきではない、と。☆キリスト者は、その良心においては医者であり、外から見れば、すなわち外面的な生活態度においては、兄弟の重荷を担う荷役の動物であるべきである。☆それは、ちょうど、人体が足ばかりではなく、弱くやわらかい肉の部分からも成っているように、聖なる教会にも弱い者たちや、その行いに私たちが腹をたてるような者たちがいるのは、やむを得ないことだからである。☆それゆえに、キリストのみ国は、担う者たちと担われる者たちから成っている。☆そして、私たちの命は、強さと弱さの両方で構成されているのである。
★大変興味深いのは、一番最後の言葉です。パウロが「教会」を語る比喩として「人間のからだの構成」を用いることは有名ですが、ルターはそれを更に拡大して、「私たちの命」が「強さ」と「弱さ」の両方で構成されている事実に注目させるのです。★この視点は重要です。教会内で「強さ」を強調する人は、自分の持つ「弱さ」が見えなくなっています。「弱さ」を強調する人は、自分の持つ「強さ」が見えなくなっています。なんというバランス感覚でしょう!
キリスト者にとっての律法
19/08/18 00:00

信仰や信念やビジョンを生きる者の盲点
05/08/18 00:00

[02]人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。
★極めて客観的に語りますので聞いてください。現代は、自らの認識方法についても客観的な研究が行われている時代です。この研究の結果、私の言葉となりますが、「全ての人は、前提的な確信を土台として物事を認識している」ということが分かっています。★とは言え、残念ながら、この理解を全ての人が自覚的に持ち合わせているわけではありません。ですから、よほど突き詰めて物事を考えることがなければ、自分が立っている「前提的な確信」を自覚することはありません。★このように語らせていただいて、先の主イェスの言葉の中心点を明確にします。主イェスの敵対者達は、イェスをキリストと信じるキリスト者を「殺すこと」が、「神に仕える」ことだと確信しているのです。別の言い方をすれば、この時の彼らは、自分たちは「神」の側にいるから正義だと確信していることです。もちろん、彼らのこの確信は、確信という言葉の通り、そう「信じている」だけです。★この意味で言いますと、乱暴に聞こえるかも知れませんが、自らが「正義だ」と確信している人物には求心力がありますから、「信仰や信念やビジョン」と集団が結びつく時、「とんでもない力」となります。★私たちの国の今のリーダーたちの現実が、悪い意味で、これに当てはまっているように私には思えます。★そして、「キリスト教信仰」を持ち、「キリスト教信仰」を扱う者は、この危険性を自覚していなければなりません。