July 2013
自分の命
28/07/13 00:00
★主イェスはこう語られました。[26]たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。★この中の「自分の命」という言葉の意味を、“人”はどのように聞き取るのでしょうか?当然のことですが、暗黙の内に、私たちが観察できる自然界のみが存在の全てであると考えている人にとっては、今生きている自分の命のことを考えると思います。この意味で言えば、この命は、動物、植物の区別なく、自分の観察できる全ての命と同様の位置にあり、太陽からの距離で考えて、まことに絶妙な位置にある地球の環境が狂えば、その存在を失ってしまう命であります。★これに対して、主イェスが語っておられるのは、創造主なる神が被造物である人間に与えようとしておられる命のことです。この命は、真の命と呼ばれたりしますが、聖書の啓示に基づけば、次のように表現出来ます。(あくまでも私の表現ですが‥)一方では、今この時に生きている命との連続性を保っています。と同時に、他方では、罪によって限界付けられた時間制限という枠を主イェスの贖いによって取り払われた命であります。ですから、主イェスはこう語られます。★だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。★主イェスが伝える「自分の命」とは「主イェスの贖い」と関係する面を否定してしまうと、失ってしまう命なのです。
預言者エレミヤの苦悩
21/07/13 00:00
★涙の預言者と呼ぶべきでしょうか、預言者エレミヤに臨んだ主なる神様の言葉に、こうあります。[01]ユダの王ヨシヤの子エホヤキムが世を治めた初めのころ、主からこの言葉があった、[02]「主はこう仰せられる、主の宮の庭に立ち、わたしがあなたに命じて言わせるすべての言葉を、主の宮で礼拝するために来ているユダの町々の人々に告げなさい。ひと言をも言い残しておいてはならない。[03]彼らが聞いて、おのおのその悪い道を離れることがあるかも知れない。そのとき、わたしは彼らの行いの悪いために、災を彼らに下そうとしたのを思いなおす。[04]あなたは彼らに言いなさい、『主はこう仰せられる、もしあなたがたがわたしに聞き従わず、わたしがあなたがたの前に定めおいた律法を行わず、[05]わたしがあなたがたに、しきりにつかわすわたしのしもべである預言者の言葉に聞き従わないならば、(あなたがたは聞き従わなかったが、)[06]わたしはこの宮をシロのようにし、またこの町を地の万国にのろわれるものとする』」。★裁きの言葉を託された預言者ほど辛い存在はないだろうと推察します。この時の預言者エレミヤは、イスラエルという国全体の持つ「空気」が求めるている声とは真反対の言葉を告げなければならないのです。「空気」の支配は、時に絶対的になり、極論を言えば、その時の「空気」に反逆することは、死を意味します。★使徒パウロは「耳障りの良い言葉」と表現しましたが、時の権力者に迎合する「声」をあげる預言者が同時に起こっている現実の中では、預言者エレミヤは真実の意味で孤独であったに違いないと推察します。★「語る言葉を託される」とは、言葉を託すお方との信頼関係を前提しなければ、成り立ちません。ですから、召命の根拠が、召される側の義に拠らないということの故に、預言者として立っていられるのだと信じます。
成人したキリスト者をめざして
07/07/13 00:00
★ボンヘッファーの語った言葉に触発されてそのロジックを参考にして述べます。「私たちは、自由に考えることができ、その考えたことを自由に表現することが可能な国に生きている。教育が目指すことは、その自由の持つ意味の大切さを国民一人ひとりに浸透させることです。」私個人の思い過ごしに過ぎないかも知れませんが、現在このことが国民一人ひとりに伝達されていないのではないかと危惧します。★日本国憲法で、一人の人間としての人権、そしてその人権の持つ自由が保障されているからこそ、この自由を規制する仕組みに対して声をあげることが出来ます。ところが、もし、憲法そのものが、人権の持つ自由を規制するとしたら、現実はどう変化するのでしょうか?極論を言えば「自由に考えることができ、その考えたことを自由に表現することが不可能」になるような法律を定める道を開くことになります。そして、その法律は、日本国憲法というお墨付きを背後に持つことになるのです。★「法律的な専門知識は難しくてわからないでしょう。私たちに任せてください」という言葉は「お任せします」という言葉とペアになっています。原発問題をも含め「法律的な専門知識は難しくてわからない。ですから全てお任せします」というのが常識的な生き方であるとするなら、このこと自体は「自立した個としての人格」にとって恥ずかしいことなのではないでしょうか?もし、個人としての人権が持つ自由とその自由が保障されていることについて知らないなら「その怠慢を、誠実に埋め合わせる」ということ以外の結末を導き出してよいのでしょうか?