牧師のページ

神と富とに兼ね仕えることができない


★今日は主イエスによる次の御言葉を聴きます。「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」★この主イエスの言葉は、譬えによる教えの典型です。どういうことか、説明致します。意志を働かせずにいる自然状態の私たちは、「神と富とに兼ね仕えることができる」と考えてしまっているのです。ところが主イエスから見れば、私たちのライフスタイルは、富を主とし、神が従となっているのです。通常、私たちはこのことに気づきません。否、自覚できないのです。★そこで、そのことに気づかせるために、まず「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。」という比喩を語られたのです。この比喩ならば、だれでもわかります。現実に二人の主人を持つ位置にいるとなれば、なおさらです。必ず「一方を憎んで他方を愛し」、「一方に親しんで他方をうとんじる」という事態に至ります。この現実的なリアリティーを確認した私たちに対して、主イエスは、「それと全く同じように、わたしたちは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」と伝えているのです。★ですから、この教えは、本人の感覚的な自覚を前提していないのです。更に言えば、教えの結果、感覚的に自覚することを期待しているというよりもむしろ、信仰者自身の意志的な決断として、「私は神を主とし、富は従の位置に置く」と告白しつつ生きることを直接求めておれるのです。これもまた日々の聖化の歩みです。

内なる光が暗ければ(暗闇ならば)


★今日は次の言葉を考えます。「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」★この主イエスの言葉を理解するために、前後の段落内容を確認します。そうしますと、この言葉は「天に宝をたくわえる−宝のある所に心もある」という主題と「二人の主人に兼ね使えることはできない」という主題に挟まれていることが分かります。そこから「全身(からだ)が明るいとか暗い」とは、人間の行動の比喩ではないかと想定できます。その点を理解して「あなたの目が澄んでおれば」と翻訳された個所のギリシャ語本文を見ますと、その直訳は「あなたの目が一つであれば」となっています。口語訳は「一つ」ということを「澄んでいる」と解釈したわけです。★しかし、人間の目は基本的に、二つで一つのものを見るように出来ているわけですから「あなたの目が一つであれば」ということは、一つの事柄に人間の関心が向いていることの比喩とも考えられます。この時、人の行動は安定したものになります。そうしますと「目が悪い」とは、人間の関心が一つに定まらず、目移りしている状態のことだと考えられ、人の行動は不安定なものになります。★これを下敷きにして「内なる光が暗ければ(暗闇ならば)」と展開されます。難しい比喩的展開ですが「内なる光」とは「内なるあかり」のことであり、人間の全行動(人生そのもの)を規定する霊的な目のことだとしますと、その霊的な目が暗闇だとしたら、その全身の暗さ、即ち、その人の人生は、主なる神様から見て、どれほど不安定であるかということです。

天に、宝をたくわえなさい


★今日考えますのは、次の主イエスの言葉です。「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。」★この言葉を逆に考えましょう。そうしますと、私たちが通常宝だと考えるものは、虫が食ったり、錆びてしまったり、盗人らが盗みたいと思う物であるということです。そして、そのようなものを宝とすることをやめなさい、という勧告です。★次に、ユダヤ人にとりまして天とは、場所的な概念と言うよりはむしろ、主なる神様ご自身のことを意味する場合が多いので、今日はその理解に立ちます。そうしますと、自分の宝を天にたくわえなさいとは、詰まる所、自分の宝を主なる神様の御前にたくわえなさい、となります。★ここまでは良いのですが、次の言葉が問題です。主イエスは「宝のある所には、心もある」と語られました。ということは、主なる神様の御前に置かれる私たちの宝とは、詰まる所、私たちの心である、となります。ここまで考え至りますと、「天に宝をたくわえる」という言葉を軽々しくは語れない自分に気づきます。なぜなら、「天に宝をたくわえる」とは、ちょっと角度を変えて言えば、「主なる神様、これがわたしの心です。是非、見てください」という生き方で生きることになるからです。★恵みにより、御霊なる神様がキリスト者に内住してくださるということが何と幸いなことか、とつくづく思わされます。助け主の働きに感謝します!

人に見せようとして


★今日は、主イエスの語られた断食に関する教えです。「また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。」★旧約聖書を調べてわかることは、断食とは本来「主なる神様に対する」悔い改めやへりくだりの姿勢を示していました。ところが主イエスの時代、そこに「人に見せる」という姿勢が入り込んでいたということです。★主イエスの指摘は、施しや祈りに関する指摘と同じです。中心点は「人に見せようとして」ということです。この主イエスの指摘からわかりますように、私たちは「主なる神様に対して行う行為を人に見せ、その行為に対する評価を人から受ける」という思いからなかなか自由になれないということです。★今述べた言葉で注意して欲しいのは、「主なる神様に対して行う行為を人に見せ」という点です。主イエスの語られた論理は明解です。どんな行為であれ、たとえそれを「主なる神様のために」という動機ではじめても、「人からの報い」を期待しているのであれば、本来の動機は既に消え去っているということです。途中から転換した動機に基づいた結果を得た以上、その行為は完結しているということです。主なる神様に対する善行に、二つの動機は存在しえない、ということです。
RapidWeaver Icon

Made in RapidWeaver