牧師のページ

つぶやき

★今朝は、婦人祈祷会からのおすそ分けです。Ⅰコリント10章10節にこう記されています。「また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、『死の使』に滅ぼされた。」読んでの通り、恐れ多い御言葉です。★「つぶやいてはならない」という御言葉だけに焦点を当ててしまいますと、「えっ!」と息が一瞬止まりそうになります。そこで文脈を調べてみました。ここでいう「つぶやく」とは、キリスト者であれば、主イエスに向かって、究極、次のように語っていることと同じなのです。「主イエスが私を罪から救いだして下さったのは、私を滅びへと導くためなんだ。」★このような意味の「つぶやき」を口に上らせることはないかも知れませんが、確認は必要です。イスラエルの民の中のある者たちがこのようにつぶやいてしまったのは、苦難に直面した際に、「私はこんな試練に耐えられない」と断定し、主なる神様が与えてくださった「約束の時を待てない」状況においてでした。★それゆえ、使徒パウロは言います。「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」この御言葉をしっかりと握りしめて、今週も歩みたいと思います。

信仰とは何か?

★「信仰とは何か?」という問いがあります。私にとって、これは大変広い領域を持つ問いと考えますので、そう簡単には、答えることが出来ません。しかし、「信ずるという行為についての説明」が求められているとしますと、大変分かりやすい説明に出会いました。私の答えではありませんが紹介したいと思います。★信仰とは、第一に、神の言葉を「聞く」ところから始まります。第二に、聞いた神の言葉を「理解」する必要があります。第三に、理解した神の言葉に「同意」する事です。そして最後に、同意した神の言葉に「信頼」して、行動することです。★この説明の素晴らしいところは、「理解」することの次に、「同意」することを置いている点です。厳密な説明ではありませんが、「理解」するという段階ではまだ、自分の外側から来たことを、自分が知的に受け止めた段階のように思えます。つまり、まだ内在化していないのです。ところが「同意」するという段階では、意志的な決断の要素が加わりますから、「理解」した内容と自分自身(の心)とが内的に結び付くように思えます。★ただ単に理解しただけでは、信仰にはなりません。ですから応答行動も生まれてきません。しかし、理解した内容を吟味し、理解し、「確かに語られている通りだ」と「同意」する段階を経ますと、信仰者は、同意した内容に信頼を置いて行動できるわけです。★まとめます。「信仰」とは、「神の言葉」を聞くことから始まり、聞いた内容を理解し、理解した内容に同意し、同意した内容に信頼して行動する。この一連の働きを意味しています。

起こり得ないことが起きたからこそ開けた永遠のいのちへの道

★使徒パウロがアテネで伝道した時の記録が使徒行伝に残っています。「パウロは‥市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた。そこで彼は、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じた。また、エピクロス派やストア派の哲学者数人も、パウロと議論を戦わせていた‥」★この時パウロは「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから‥」と、創造主について語り出し、その「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」と語り、創造主により、最終的な「さばきの日」が定められており、その日が確実に到来することの確証として、主イエスの復活という出来事が起きたのだ、と述べています。★しかし、「死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い‥」となり、論客の多くが、「死人のよみがえり」という論点にひっかかりを覚え、最終的な「さばきの日」が創造主により定められているという論点に対しては、全く注目に値しないかのごとく過ぎてしまったことが記録されています。★「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」主イエスの復活を否定してしまえば、この喜びの言葉が自分の心に届く時を、自分自身で先延ばしにしてしまいます。

民主的な骨格と自己の確立

★私の杞憂かもしれませんが、今の日本では、「強いリーダーシップ」を求める声が、無防備に、叫ばれているように思えてなりません。★民主的な方法によって物事を進めて行くということは、私たち一人一人が、意思決定の場に参加するという主体性が前提です。この主体性を支えるのが、正しい意味で自己確立した「私」という存在です。自己確立した、その私が考え、その私が決断すること、その私が声をあげ、その私が行動することによって、現在、自分が生きている場に影響を及ぼすことが可能であるということ、それが「民主的な骨格」だと考えます。★自己確立していない「私」でも、この「民主的な骨格」を、外側から与えられて機能させることは出来ます。しかし、その骨格が、自己確立した「私」の内側から生まれ出てきたものでない場合、極めて脆弱です。誤解を恐れずに言えば、外側から与えられた「民主的な骨格」は、いとも簡単に、「上意下達の骨格」に取って変わられてしまいます。私としては、この「上意下達の骨格」の「上」が、今求められている「強いリーダーシップ」のように思えてしまいます。そして、この「上」は、いとも簡単に、自己確立していない「私」たちを支配してしまいます★「上意下達の骨格」を推進する知者達は法的な仕組みを熟知しています。民主的な骨格そのものを上手に崩してしまえばよいのです。そして、民主的な骨格を覆されてしまった後では、民主的という言葉は、反体制という意味に転じてしまうのです。今保持している民主的な骨格を大切にし、正しい意味で自己確立した「私」を育てたいと思います。
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