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キリスト者が持つ自発性の根拠

★今朝は、自発性ということを考えたいと思います。自発性という言葉の意味は、人間の行動について言えば、その行動を起こす原因を自らの内に持つということです。この説明に対するより厳密な説明が必要かも知れませんが、一応このように定義します。★そうしますと、キリスト者の自発性は、「神の恵みに応答する」という内的な原因を持ちます。この場合、一見「神の恵み」という外的な要因によって行動しているように見えますが、大切なことは「応答する」という行為が、キリスト者の側の自発的要因であるということです。★パウロの言葉で言えば、Ⅱコリント8章9節です。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」★この言葉が語られた文脈から解釈すれば、この言葉が提示しているのは、キリスト者が自発的に「貧しくなる」根拠は、主イェスにおいて享受している贖罪の恵みに応答することである、ということです。★ここで重要なことは「贖罪の恵みに応答すること」はあくまでも自発的であって、強制(命令)ではないということです。つまり、キリスト者の内にこの自発的応答を生み出すのは「主イェスからの愛を受け取ったキリスト者の側の内側に生まれる主イェスへの愛だ」ということです。★そしてこの点がかなり重要だと考えますが、この「主イェスへの愛」に対して、比較・競争原理は適用されていない、ということです。今自分の出来ることが「レプタ硬貨二枚」であれば、それでよいのです。

救いと良い行いの関係

★キリスト者がつい忘れてしまうことの一つが、救いと良い行いの関係です。パウロはエペソ人への手紙第2章の中で、次の順序を明確に語っています。
①「あなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって」→「生れながらの怒りの子であった」→②「あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって」→「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし」→「キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。」→③「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」→④「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」★この順序を絞れば「わたしたちは…良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」となります。ですから④の中の文章に、新改訳、新共同訳の立場は一つの言葉を入れます。「神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ、その良い行いを、備えて下さったのである。」このように、「キリスト・イエスにあって造られたキリスト者」が「良い行い」をするのです。★このことを「救いと良い行い」の関係で言えば、「キリスト者」は「恵みにより救われているので」、「良い行い」をするのです。この「救われているので」という表現に注目です。最早「救われるために」ではないのです。★たとえ「良い行い」の少ないキリスト者がいたとしてもこの順序に対して「とやかく言う」ことはできません。それが「恵み」です。
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