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救いと良い行いの関係

★キリスト者がつい忘れてしまうことの一つが、救いと良い行いの関係です。パウロはエペソ人への手紙第2章の中で、次の順序を明確に語っています。
①「あなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって」→「生れながらの怒りの子であった」→②「あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって」→「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし」→「キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。」→③「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」→④「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」★この順序を絞れば「わたしたちは…良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」となります。ですから④の中の文章に、新改訳、新共同訳の立場は一つの言葉を入れます。「神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ、その良い行いを、備えて下さったのである。」このように、「キリスト・イエスにあって造られたキリスト者」が「良い行い」をするのです。★このことを「救いと良い行い」の関係で言えば、「キリスト者」は「恵みにより救われているので」、「良い行い」をするのです。この「救われているので」という表現に注目です。最早「救われるために」ではないのです。★たとえ「良い行い」の少ないキリスト者がいたとしてもこの順序に対して「とやかく言う」ことはできません。それが「恵み」です。
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