牧師のページ

天の父の養い


★今日は次の言葉を考えます。「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。」★ここで「空の鳥は、どのようにして(how)養われているのか?」という問いを考えてみましょう。これに対する答えは、鳥が木の実や小さな虫達を食べているから、と答えることになります。この答えは、生物科学的な視点からの答えと言えます。★これに対して、それでは「天の父は彼らを養っていて下さる。」という主イエスのこの言葉は一体どのような視点からの答えなのでしょうか?キリスト者であれば、恐らく、「信仰の視点から」と答えることと思います。もう少し詳しく言いますと、創造者であられる主なる神様は、被造物である鳥の命を心にかけて下さり、その命を支えて下さるという視点です。★この信仰的な視点は、一般的な言葉で言いますと、「何故(why)、空の鳥は生きているのか?」という問いに対する答えであります。そして、この答えは、生物科学的な答えの対極にあります形而上学、すなわち哲学で言う、存在論からの答えであります。★このことからもわかりますように、もし仮に人間が哲学的(信仰的)な思索(why)を放棄してしまうと、残された思索は生物科学的な思索(how)だけとなり、いわゆる、生物は複雑な機械に過ぎないという決定論的な思索だけが支配的な世界になってしまいます。キリスト者は、聖書の啓示を受け入れることを通して、この危険を回避し、同時に、「何故(why)」の世界に対する答えを得ているのです。キリスト者は、このことを大いに喜びましょう。

聖霊を受けよ②


★先週はイースター礼拝でした。一週間遅れですが、使徒ヨハネの伝えてくれた出来事を確認しましょう。「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた。そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。』そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう。』」★復活された主イエスが行われたことを整理してみましょう。第一は「手とわきとを、彼らにお見せになった。」と記されています。これは、十字架の上で死んだあの私がここにいるという啓示です。第二は「わたしもまたあなたがたをつかわす」という告知です。弟子たちを世に遣わすということです。第三は「聖霊を受けよ」という勧告と「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」という告知です。この告知は、使徒たちに附与された使命の持つ働きです。★第二と第三は深く関係しています。文字通りを言えば、世に遣わされた弟子たちの使命の核心は、「罪のゆるし」を提示することです。そして、世に遣わされた弟子たちは、聖霊を受けずして、その使命を果すことは出来ません。肯定的に表現します。聖霊なる神様の働きと共に「罪のゆるし」を核心に持つ宣教が進むのです。

聖霊を受けよ①


★今日はイースター礼拝です。ヨハネの伝えてくれた出来事を確認しましょう。「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた。そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。』そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう。』★復活された主イエスが行われたことを整理してみましょう。第一は「手とわきとを、彼らにお見せになった。」と記されています。これは、十字架の上で死んだあの私がここにいるという啓示です。第二は「わたしもまたあなたがたをつかわす」という告知です。弟子たちをこの世に遣わすということです。第三は「聖霊を受けよ」という勧告と「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」という附与された使命の持つ働きの告知です。★第二と第三は深く関係しています。文字通りを言えば、世に遣わされた弟子たちの使命の核心は、「罪のゆるし」を提示することです。そして、世に遣わされた弟子たちは、聖霊を受けずして、その使命を果すことは出来ません。肯定的に表現します。聖霊なる神様の働きと共に宣教が進むのです。

天の父にとって、それは自明なことである


★「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。」キリスト者であれば知らない人はいないと思えるほど有名な、主イエスのお言葉です。★「それだから」という語りだしは、これから語る言葉が、神を主人とし、富を主人の位置に置かないと決断したキリスト者に向けた言葉であることを示します。つまり、「それだから、前もって、あなたがたに言っておく」と読めます。当然のことですが、主イエスは、富を主人の位置に置かないと決断したキリスト者が、必ずや、思いわずらいに至ることをご存知だったのです。思いわずらう理由は簡単です。現実的に言えば、「命」や「からだ」が、お金(富)によって手に入れる食物や飲み物、そして衣服によって支えられているからです。そこで主イエスは語られました。「命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。」★この主イエスの言葉は、どう聞き取りましょうか。私としては今日、言葉を補って次のように読むことにします。主イエスの論理はこうです。「お金によって手に入れる食物や着物があなたがたの命やからだを支えるとはいえ、あなたがたの命そのものや、からだそのものの方が、はるかにまさって重要だということは、あなたがたの天の父にとっては自明なことではないか。だから思いわずらうには及ばない。」いかがでしょうか。長々と説明していますが、わたしたちの命やからだが、何よりも重要であることを、天の父はちゃんとご存知なのです。
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