牧師のページ

主は、愛する者を懲らしめられる

★今日は、主なる神様から与えられる「懲らしめ」についての教えです。(11)わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない、その戒めをきらってはならない。(12)主は、愛する者を、戒められるからである、あたかも父がその愛する子を戒めるように。★ここに言う「懲らしめ」には二つの可能性が考えられます。第一は、人生の歩みの中で、なにがしかの「痛い」出来事が生起し、それが主なる神様から与えられる「懲らしめ」の場合です。第二は、具体的な人物を通して、直接的に「叱責の言葉」をもらう場合です。以上の可能性のどちらであれ、そこでわきまえなければならないのは、「私には軌道修正が必要である」という理解と自覚です。★直接的な「叱責の言葉」の場合、私たちとしては、比較的気付きやすいと思います。これに対して、なにがしかの「痛い」出来事が生起する形での「懲らしめ」の場合は、案外見過ごされやすいと考えます。自分自身ではもちろん気付けず、そのまま進んで行ってしまうと大きな過ちを犯してしまうというような場合、主なる神様は、摂理的な働きを起こされるということです。★「私には軌道修正が必要である」という理解と自覚を得るために最も有効なのは「神の言葉に聴く」ことですが、私たちは、無意識的に「神の言葉」を遠ざけることが出来ます。そのような場合、父がその愛する子を戒めるように、主は、愛する者を、懲らしめられるのです。ですから、主の懲らしめを軽んじることなく、痛みを持ちつつも、軌道が修正されることを選びとりましょう。

献げものをもって、主なる神様をあがめる

★(09)あなたの財産と、すべての産物の初なりをもって主をあがめよ。(10)そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒ぶねは新しい酒であふれる。
読んでの通りですが、今日の主題は「財産と、すべての産物の初なりをもって主をあがめよ」という勧告です。★細かく考えれば「財産」と「すべての産物の初なり」とは異なるものです。分かりやすい方から言えば、「すべての産物の初なり」とは、小麦なり大麦等の穀類、それにオリーブや果物など、一年の中で収穫の時期を持つものが該当します。それらが最初に収穫される時、その初収穫の中から一部を献げ、主なる神様をあがめるのです。★これに対して「財産」の方は、収穫物を売ってお金に替えたと考えれば、言わばいつでも手元にあるものです。ですから財産の場合は、その中から決められた仕方で献げ物をすることによって、主なる神様をあがめるのです。★そして大変不思議なことに「そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒ぶねは新しい酒であふれる。」と続いています。言い換えれば、「献げることによって主なる神様をあがめる」なら、献げたもの以上に、主なる神様から与えられる、ということです。これは「信仰の法則」とも呼べるようなもので、体験した信仰者にしか分からない信仰経験です。もちろん、無信仰者から見れば、信者たちからお金を巻き上げる教祖の方便と言われるかもしれません。なぜなら、「いつでも、どこででも確実に起こる」というような現世利益的な即効性を持つ法則ではないからです。にもかかわらず、創造主を知るわたしたちキリスト者は、献げものをもって、主をあがめるのです。

自分を見て賢いと思ってはならない

★今日は箴言第3章から読みとる帝王学その三です。(07)自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。(08)そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。★「自分を見て賢いと思ってはならない」という勧告の次に「主を恐れて、悪を離れよ」という勧告が続いています。ここから推察しますと、「自分は賢いから大丈夫」即ち「この程度の悪なら、いざとなれば、十分歯止めがかけられるから大丈夫」という傲慢な思いの下、ちょっとした悪に手を染める王の姿を連想します。しかし、悪というものは大変魅力的なのものでありまして、知らず知らずのうちに、歯止めがかけられないほどの大きさに膨れ上がるものなのです。★「自分は賢いから大丈夫」という油断が、結局は自分を窮地に追い込んで行くのです。場合によっては破滅でさえあります。まさに、王たるもの「自分を見て賢いと思ってはならない」のです。★加えて、人間の心とは正直なものです。人間の心は、自分自身が「悪に手を染めている」ことを知っています。それゆえに、身体全体が、明るく伸び伸びと生きるための力を生み出せません。★もうお分かりのことと思います。この箴言は、一国の王に限られた事ではありません。私達一人一人の生き方に対しても、そのまま適用できます。悪に手を染めている自分に気付いたら、その時点で、悔い改めることです。「わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」悔い改めときよめの繰り返しが、キリスト者の歩みを精練します。

主があなたの道をまっすぐにしてくださるなら

★箴言第3章から読みとる帝王学その二です。(5)心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。(6)すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。★第一義的に聴き取ります。イスラエル王国の頂点に立つ王は、どんな時にも、どんなことでも「主に信頼する」のです。そうすれば、主は、王の道をまっすぐにされるのです。そして、王の道がまっすぐになれば、結果的に、国民は安んじて、イスラエル王国に住むことができるのです。★第一義的に聴き取りますと、この箴言は、知識をないがしろにしている言葉ではないことがわかります。将来一国の王となる王子は、幼い時から、最高の学問を身につけるようにと教育されることでしょう。従順にして怠らず学問を学べば、その時代随一の博識の王となるかもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、イスラエルの王は「自分の知識」にのみ頼ってはならないのです。あくまでも「主に信頼する」のです。★乱暴に聞こえるかも知れませんが、天地を創造された主なる神様の持っていらっしゃる知識に比べたら、人間が知り得る知識などは、大海の一滴に過ぎないのです。とは言え、ここで重要なのは知識の量ではありません。「王の道は、知識の量にはよらない」のです。つまり、どんなに知識の量を増しても、王は自分自身の道を真っすぐにはできないのです。国民の安住できる統治を行うためには、「主に信頼する」ことなのです。★最後になりました。主によって「あなた」の道がまっすぐにされるなら、「あなた」が思うよりもはるかに多くの人たちに安息を与えることができる自分を自覚しましょう。
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