牧師のページ

自分の持つ義(正しさ)の壁

★ユダヤ人である使徒ペテロが、異邦人へ、主イェスの福音を伝えるという働きを受け入れるためには、特別な指導が必要でした。ペテロの場合、主なる神様は夢を用いました。★ペテロは祈をするため屋上にのぼった。時は昼の十二時ごろであった。彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」(以下略)。★簡潔に言えば、ペテロの場合「自分は一つの律法規定に忠実に生きているユダヤ人である」という壁を破る必要があったのです。しかし、この壁は大変厚いのです。なぜなら「律法規程に忠実に生きている」ということは「義(正しさ)を生きている」という自覚であり、人間は、自分の生きる「義(正しさ)」をそう簡単には放棄できないからです。★もしかしたら、私たちキリスト者にもペテロ的な壁があるのかもしれません。ヨハネの記す言葉です。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」ですから、乱暴に聞こえることを覚悟しますが「神が愛している世を、清くないなどと言ってはならない」との声が聞こえてきます。

信仰は“命”なのです

★主イェスが語られた譬えです。「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。★主イェスが語られたのは「命の持つ成長の神秘」です。人間は科学の方法を用いて、生きている命の現象を説明しますが、命そのものは全く説明できません。なぜなら、言い古されている言葉ですが、私たち人間は、命の現象を化学記号を使って説明できても、それは既に存在する命の現象を説明しているだけであって、無から命そのものを造りだすことができないからです。★主イェスは、神の国の伸展がこれと同様だと語ります。主イェスがここで語られる「神の国」を「神の支配」と理解しますと、確かにその通りなのです。まず、現象的に言えば、イエスをキリストと信じる人が増えれば、「神の国=神の支配」が伸展していると言えます。そして、私たちは、人がイエスをキリストと信じるようになった経緯(現象)を心理学で説明することができます。しかし「何故、人がイエスをキリストと信じることが起きるのか」という本質的な点は、心理学では説明することができないのです。もしできれば、心理学を駆使して、イエスをキリストと信じさせる道が開けますが‥。★ヨハネの言葉で言えば、人がイエスをキリストと信じるとは「上から“生まれる”」ことなのです。つまり、ヨハネの言葉に従えば「信仰は“命”なのです」。主なる神様が“命”を生んで下さるのです。

聞く耳のある者の始めること

★主イェスを軸にすれば、マルコによる福音書は、主イェスの誕生を語らず、聖霊を受けた主イェスの洗礼から始まります。主イェスは、洗礼者ヨハネが捕えられた時を起点として「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と語りはじめます。そして、シモン・ペテロを弟子として召した主イェスは、安息日にカペナウムで教え始め、その教えを聞いた人達は、その教えに驚愕してしまいます。★そこで、主イェスの教えを聞こうと決め、福音書を読み進みますと、記されているのは主イェスの御業であり、なかなか教えが登場してきません。まだかまだかと読み進み、ついに4章で登場します。★「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」。
★主イェスは譬えの解き明かしの最初で語ります。「種まきは御言をまくのである。」だとすれば、主イェスは「御言をまかれたのです」。私たちは王道を教えられています。まず最初に、主イェスの語られた言葉を聞くこと、それが聞く耳のある者の始めることです。

人をさばくな

★今朝は「さばく」ということを考えたいと思います。まずは、主イェスの語られた次の言葉です。
[01]人をさばくな。自分がさばかれないためである。
[02]あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
★この言葉が伝えているのは、相手を「さばく」ために自分が用いるその物差し(規準)で自分も「さばかれる」ということです。ここで大変興味深いのは、「誰に」さばかれるのか、主イェスによって、その主語が語られていないことです。★そこで、人間相互の「さばき合い」に適用して考えることにします。まずは、わかりやすい適用です。お互いに相手の非をあげつらい、罵り合っている姿を想定することができます。まさに、同じ規準で相手をはかる様子が手に取るようにわかります。★次は、通常の表現で言う「教育的な視点から出た指摘」です。相手のことを思って提言するのですが、下手をすると「単なる批判」と受け取られ、気まずい関係に至ります。主たる原因は、自分の欠点を欠点のある相手から指摘されることには納得がいかない、という思いです。★それなら「教育的な視点から出た指摘」は不可能なのかと言いますと、現実では可能になっています。どうも秘訣があるようです。秘訣の原則は、「さばく」のではなく「事実と結果を提示し、対策を共に考える」というアプローチです。「否定」を伝えなくても、解決策は見出せるのです。
RapidWeaver Icon

Made in RapidWeaver