September 2011
神の言葉の持つ真理
25/09/11 00:00
★(4)イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。この主イエスの語られた言葉は、キリスト者のよく知っていることです。キリスト者は、「神の口から出る一つ一つの言(言葉)で生きる」のです。★これに加えて、神の口から出る言葉の性質を確認します。(10)天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。(11)このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。この個所にありますように、「わが口から出る言葉は‥わたしが命じ送った事を果す。」これが主なる神様の主張です。★ここにもう一点加えます。(19)御使が答えて言った、「わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである。(20)時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がきけなくなり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる。」ここで語られている「わたしの言葉」とは、主なる神様が御使いガブリエルに託した言葉のことです。この意味では預言の言葉と同等です。★以上、これまでの言葉を総合します。「キリスト者は、時が来れば必ず成就する、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのです。」★神の言葉の持つこの真理を、私たちは、日々何度でも再確認しましょう!
人生後半の課題と取り組む
18/09/11 00:00
★今日は箴言の第12章16節です。(16)愚かな人は、すぐに怒りをあらわす、しかし賢い人は、はずかしめをも気にとめない。★この言葉が私の心を捕らえたのは、多分に私の側の事情による面が大きいと思います。心の世界で一般的に語られる事象ですが「家庭生活の中で、思春期の心と思秋期の心が衝突する」と言われます。現実にこの言葉の通りになるかどうかは別として、ユングという心理学者は、年齢が40歳(思秋期の入口)を越えると、人生後半の課題を抱えるようになると語りました。ユング自身、晩年は、この人生後半の課題を抱えた人達のみしかカウンセリングを引き受けなかったと言われます。★人生後半の課題とは、その人の人生前半の形成過程の中で、言わば「闇に送られた事柄」が顔を出すことを言います。ですから、この事柄が40歳以後に再び顔をのぞかせる時には、取り扱うのに、かなり厄介な相手となります。★何故厄介かと言いますと、この心の働きは、本人の意識の働きとは無関係に、あるいは、おかまいなしに顔を出しますから、意識的なコントロールが効かない面があるのです。ですから、厄介なのです。★とは言え、心理学的な知見で言えば、「怒り」は二次感情ですから、40歳以後「すぐに怒り」が出てきたら、できるだけその状況を記憶することです。その情報の集積から、怒りの感情の背後に隠れている、「あるもの」に気づくことです。この「あるもの」の正体は恐らく、「はずかしめをも気にとめない」という言葉とどこかで通じていると推察します。★愚かであるか賢いかは別として、この課題、意志的なコントロールを越えていますから、じっくりと取り組む必要があります。
主の御目が注がれている先にあるもの
04/09/11 00:00
★箴言12章10節にこう記されています。まずは口語訳です。(10)正しい人はその家畜の命を顧みる、悪しき者は残忍をもって、あわれみとする。続けて新改訳です。(10)正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。悪者のあわれみは、残忍である。最後に新共同訳です。(10)神に従う人は家畜の求めるものすら知っている。神に逆らう者は同情すら残酷だ。★この箴言から分かりますのは「正しい人・神に従う人」は、「自分の家畜のいのちに気を配る」ということです。とは言え、ここから、一気に動物愛護のキャンペーンをはるつもりはありません。もしそれを言うなら、主なる神様が、ノアの箱船につがいの動物達を乗船させたことに基づいた方が説得力があります。それはそれとしまして、対比されていますのは「悪しき者、神に逆らう者」の「残忍さ」です。そうしますと、この10節から考えれば、「家畜のいのち」をどう扱うのかという点でその「残忍さ」がはかられているということです。★ここからが思索の要点です。10節の内容は、次のように言い換えることができないでしょうか。「正しい人・神に従う人」は、人間の命に気を配るだけでなく、自分の家畜の命に対しても気を配るのです。悪しき者は、その逆です。人間の命に対してはもちろんのこと、自分の家畜の命に対してすら残酷なのです。★わたしたちは、「家畜のいのち」をどう扱うのでしょうか、「人間の命」をどう扱うのでしょうか。そこに、見えてくるものに対して、主なる神様の御目が注がれています。