「空の空、空の空、いっさいは空である」をどう読み解くのか①
(02)伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
(03)日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。(口語訳)
★「空の空、空の空、いっさいは空である。」というこの言葉が仏教の教えを連想させるので、宗教の壁を越えて「人々の心に響く」ように思えます。しかし、実際に読み進みますと、その内容は「無常観」を保持するような言葉の連続ではないのです。ですから、若松さんの「知とこころ」と小友さんの「知とこころ」とが対談する必要があったと言えます。★比較しても意味はありませんが、この番組を見た後、お二人の「知とこころ」に及びもしない私もまた「コヘレト」が語る「空」の意味を思い巡らす事となりました。★結果、現在の私には、この「空」を読み解くヒントは「コヘレト」が語る「みな空であって風を捕えるようである」というこの言葉を、主イェスが語られた「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」という言葉から読み解く事ではないかと考えています。★注目しているのは「風」です。私たちは「風を捕える」と聞くと「不可能」と解釈してしまいますから「虚無」が連想されてしまいます。しかし、主イェスの言葉からは別の視点を与えられます。(次回に続く)
悪は血を流すに至る!
(01)ダビデの子、イスラエルの王ソロモンの箴言。
(07)主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。
(08)わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教を捨ててはならない。
(09)それらは、あなたの頭の麗しい冠となり、あなたの首の飾りとなるからである。
(10)わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。
(11)彼らがあなたに向かって、「一緒に来なさい。われわれは待ち伏せして、人の血を流し、罪のない者を、ゆえなく伏してねらい、
(12)陰府のように、彼らを生きたままで、のみ尽し、健やかな者を、墓に下る者のようにしよう。
(13)われわれは、さまざまの尊い貨財を得、奪い取った物で、われわれの家を満たそう。
(14)あなたもわれわれの仲間に加わりなさい、われわれは共に一つの金袋を持とう」と言っても、
(15)わが子よ、彼らの仲間になってはならない、あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。
(16)彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ。
★ソロモン王は「主を恐れることは知識のはじめである」と語っています。そして「主を恐れること」の一番最初に位置するのは「悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない」です!「彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ」とありますように「悪は血を流すに至る」のです。戦争犯罪で裁かれている若きロシア兵の悲惨を思い起こします。
キリストの血は、良心が弱い者から、良心が強い者への成長をも支える
★パウロの記述に基づきますと「良心」は「心の働き」の一つの様に思えますので「心に属している」ように思えます。と同時に「心の外」にあって「心の働きを監視している」ようにも思えます。★「良心」と翻訳されるギリシャ語は「συνειδησις」という言葉で、言葉の成り立ちから「一緒に見ている」と理解することができます。この言葉からは「心に属しつつも独立して働く」と考えることもできますし「心から独立しつつ連携して働く」とも言えます。★私はローマ書の講解の中で、エゼキエル書第36章25節~28節の御言葉がキリスト者に成就していると語っています。
(26)わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。
★この26節に基づき、キリスト者となった自分の心を考えますと「新しい心」の中に、新しい「良心」があるとは考にくいです。私の実感で言えば、私の「良心」が「私自身」に対して「新しい霊」と「新しい心=肉の心」に従って生きるようにという選択を迫るように思えます。★ヘブル10:22に、口語訳では「心はすすがれて良心のとがめを去り」とあり、新改訳2017では「心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ」とあります。共に「良心がきよめられる」という内容を伝えているように思えます。とすれば良心の働きも新しくされて(強められて・成長して)ゆくことが期待できます。
ローマ人への手紙第14章1節の翻訳について
[01]信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。
★この翻訳に基づき、通常この1節は、パウロが「信仰の強い者」に向けて「信仰の弱い者を受けいれなさい」と命じている、と解釈されています。しかし、1節以降をよく調べますと「信仰の強い者」という言葉は登場していないのです。にも係わらず、その解釈が固定してしまい、14章は専ら「信仰の強い者」に向けたパウロの言葉と解釈され説教されているように思えます。★これに対して私は14章1節を次のように翻訳しました。
[01]信仰によって弱い者を受けいれなさい。その考えを批評してはなりません。
★私は「信仰によって弱い者を…」と翻訳した上で、まず第一に、コリント人への第一の手紙第8章を下敷きにして、パウロが語る「弱い者」とは「良心の弱い者」のことであるとしました。第二に、続く2,3節から「食べない者」が「良心の弱い者」と解釈されますから「食べる者」が「良心の強い者」ではないかと解釈しました。その上で、この14章においては、基本、パウロは「良心の弱い者」と「良心の強い者」との双方へ向けて語っているのだ、とお伝えしています。★逆に言えば、14章は専ら「信仰の強い者」に向けたパウロの言葉ではないですし、同時に「信仰の強い者」と「信仰の強い者」という視点からのパウロの教えではないと解釈するのです。