牧師のページ

事を定めるのは主

★今朝は、箴言第29章より引用します。まず為政者に向けた言葉です。
(02)正しい者が権力を得れば民は喜び、悪しき者が治めるとき、民はうめき苦しむ。
(04)王は公義をもって国を堅くする、しかし、重税を取り立てる者はこれを滅ぼす。
(12)もし治める者が偽りの言葉に聞くならば、その役人らはみな悪くなる。
(14)もし王が貧しい者を公平にさばくならば、その位はいつまでも堅く立つ。
★公義が失われた国では民が苦しむことがわかります。為政者が「正しい」ことを選び、「公義」を選び、「偽り」捨て、「公平」を貫くなら、その国は堅く立つことができます。★それでは、公義が失われようとする時、民はどうすれば良いのでしょう。
(06)悪人は自分の罪のわなに陥る、しかし正しい人は喜び楽しむ。
(16)悪しき者が権力を得ると罪も増す、正しい者は彼らの倒れるのを見る。
★「悪」の支配が最終的に勝利することがないことをまず信じることです。そして、同時に、主なる神様の摂理的なご支配を信じる事です。
(26)治める者の歓心を得ようとする人は多い、しかし人の事を定めるのは主による。この御言葉にありますように、「事を定めるのは主」であって、「治める者」ではないのです。信頼の錨を下ろすべき相手は「治める者」ではなく「事を定める主」であります。

福音は「死の体」を自覚するキリスト者のためでもある

★今朝は、主イェスを否認した弟子ペテロの姿を確認します。主イェスが大祭司カヤパのところで裁判(審問)にかけられている場での出来事です。★(24)それからアンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところへ送った。(25)シモン・ペテロは、立って火にあたっていた。すると人々が彼に言った、「あなたも、あの人の弟子のひとりではないか」。彼はそれをうち消して、「いや、そうではない」と言った。(26)大祭司の僕のひとりで、ペテロに耳を切りおとされた人の親族の者が言った、「あなたが園であの人と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」。(27)ペテロはまたそれを打ち消した。するとすぐに、鶏が鳴いた。★私たちキリスト者は、この出来事を読むたびに何を考えるのでしょうか?角度を変えて、私たちキリスト者は、この記事をどのように読むのでしょうか?あるキリスト者は、「ペテロのような罪に陥らないようにという警告だ」と読むかもしれません。とてもわかりやすい教訓的な読み方です。しかし、この読み方だけでは恐らくキリスト者としての自分を苦しめる方向に結実するでしょう。かと言って、このペテロの姿は自分の姿だと考え、ペテロと同じ過ちを自分が平気で犯すことを易々と許すことにも、恐らく抵抗を感じるでしょう。★私たちは、ペテロの姿をどのように読むのでしょうか?「これぞ正解」というような読み方があるわけではないでしょう。ただ一つだけ明らかなことがあります。「わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」この恵みの言葉が私たちの前に置かれています。

主イェスが十字架で死なれたことの意味

★キリスト教の福音の核心は、イザヤ書第53章に、主イエスが引き受けられた十字架刑の意味が啓示されているということです。
[03]彼(=イエス)は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。(※「われわれ」に「」が含まれるということ)
[04]まことに彼(=イエス)はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
[05]しかし彼(=イエス)はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
[06]われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼(=イエス)の上におかれた。
[07]彼(=イエス)はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
[08]彼(=イエス)は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
★この啓示を信じることができれば、信じる者の内に永遠の命が宿るのです。

主にたより、主を頼みとしよう

★南王国ユダに対してバビロン捕囚が起きる前ですが、主なる神様から預言者エレミヤに託された言葉にこうあります。
[05]主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。
[06]
彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。
[07]おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。
[08]彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。
★主なる神様から伝えられているメッセージはとても単純です。「人を頼みとし、その心が主を離れている人」の結末と「主にたより、主を頼みとする人」の結末です。しかし、「のろわれる」という言葉と「さいわいである」という言葉が使われていますので、「契約的な関係」の中で聴き取るべき言葉であることが分かります。★主なる神様との間に契約関係があるということは、創世記の大前提です。そのことを踏まえて、契約に従うのかそれとも契約を破るのかという選択的決断が求められているということです。★「主にたより、主を頼みとする人」の結末をイザヤ書で言えば「主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる」私たちは、主にたより、主を頼みとしましょう。
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