牧師のページ

最高のエネルギー補強体験


★伝道者パウロは、その著作の一つであるピリピ人への手紙の中で、次のように語っています。「さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった。」★ここで語られているのは間違いなく、パウロの喜びです。なぜパウロは喜んでいるのでしょうか?その理由はとても簡単です。パウロのむかえた現実は、投獄であり、自由に神の言葉(福音)を語れなくなったことです。ところが、そのことを契機として、パウロには、仲間がいたことがわかったのです。神の言葉(福音)を語る仲間が、パウロのすぐそばにいたのです。投獄という出来事を通して、パウロに託された使命が頓挫するかに見えたその時、神の言葉(福音)を語る仲間が見えたのです。パウロにとってこのことは、何と大きな喜びだったことでしょうか。★プロテスタント教会に属するキリスト者は、万人祭司という視点に立つ教会です。この視点で言えば、牧師や宣教師だけでなく、キリスト者は全て、宣教の働きの最前線に立たされています。この意味で言えば、(私の例で恐縮ですが)「西田先生、わたしがすぐそばにいますよ!」というメッセージは、最高のエネルギー補強です。お互いに、このエネルギー補強を行える教会は、命を失いません。

キリスト教会の命を継続させるもの


★使徒パウロは、教会を牧する者達へ向けて、最も基本的且つ重要な勧告を次のように語っています。一つは、「信仰の弱い者を受けいれなさい。(ローマ14:1a)」です。もう一つは「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。(ローマ15:1,2)」です。★この二つの勧告はどのような視点で聴き取る言葉なのでしょうか。このことを考えるにあたり、教会とは何かという定義を持ち出します。定義は多々ありますが、今日は、「教会とは、主イエスの呼びかけにより、罪の支配から贖い出された者達の信仰共同体」としましょう。そうしますと、パウロのこの二つの言葉は、競争原理や優劣原理が信仰共同体を決して支配することがないようにするための勧告であると分かります。★パウロの言葉に基づけば、様々な意味で、教会の中には「弱い信仰者と強い信仰者」が存在するということです。この「様々な意味で」というところが大切です。なぜなら、時と場合により「弱さは強さとなり、強さは弱さになる」からです。ですから重要なことは、時と場合により「強い者が、強くない者たちの弱さをになう」ということであり、お互いに「隣り人の徳を高めるために、その益を図って」生きるということです。★どんなに強い信仰者でも弱さがありますから助けが必要です。同時に、どんなに弱い信仰者でも強さがありますから、相手を助けることができます。お互いに、相手の弱さを担い合うことを生きるなら、「信仰共同体(教会)の命」は、決して消えることがないのです。

主なる神様により、その存在を喜ばれている自分


★今日は、主イエスの語られた次の譬え話から考えます。
[04]「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。[05]そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、[06]家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。[07]よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にあるであろう。
★主イエスによるこの譬え話の要点は「羊飼いの側の喜び」です。この聖書個所から、中学一年生たちに「一匹の羊(“あなた”という存在)を見出したことを喜ぶ羊飼い(主なる神様)の喜び」を語りますと、聴いていた中学生達は「神様の愛に心が暖かくなりました」というとても素直な感想を書いてくれます。★福音の語り方に王道はないと思います。とすれば、私としては、主イエスの語られたこの譬え話シリーズ、「失われた羊の譬え」,「失われた硬貨の譬え」、そして「失われた息子(放蕩息子)の譬え」にその軸足を置きたいと思います。日本人は、福音を通して、聖霊のお働きにより、「主なる神様により、その存在を喜ばれている自分」について伝えられることがもっと必要です。

主なる神様の御言葉に聴くことによって歩む一年


★「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」これは詩篇第119篇105節の言葉です。この言葉を通して、詩人は、主なる神様に向かって何を告白しているのでしょうか?「の」という非常に短い表現の故に、なんとなく解った気持ちになるのですが、少しく丁寧に考えましょう。★今朝は、後半の「わが道の光」だけを取り上げます。「わが道の光」とは通常「自分の進むべき道を照らし出してくれる光」と解釈されます。そうしますと、「あなたのみ言葉」とは「主なる神様の言葉」のことですから、詩人は「主なる神様の言葉が、自分の進むべき道を照らし出してくれる光なのだ」と告白していることになります。★このように解釈た上で、詩人が「あなたのみ言葉は、わが道です。」と告白した場合を想定して見ましょう。「あなたのみ言葉は、わが道です。」と「あなたのみ言葉は、わが道の光です。」との二つです。この類似した告白は何か異なる点があるのでしょうか?★「あなたのみ言葉は、わが道です。」の場合は、究極「あなたのみ言葉の通りに、わたしは生きます。」となりそうです。この場合「自分が考える」という領域が少ないように思えます。それに対して「わが道の光です。」の場合は、光によって進むべき道が照らし出されるのですが、その道を歩むために、具体的に考えて行動するのは自分であるという自覚があるように思えます。★この告白の相違を生むのは、恐らく、聴き取った御言葉の内容だと考えます。今年一年、どちらの告白が私たち一人一人の告白になるのでしょうか。いずれに致しましても、主なる神様の御言葉に聴くことによって歩む一年を目指しましょう。
RapidWeaver Icon

Made in RapidWeaver