牧師のページ

考えつつ聞く必要がある、主イエスの教え


★「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」今日から、しばらく、この御言葉を聞き取ることにします。★多くの説教者が、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。」とは「キリスト教の神様は、どんな願望でも、こちらが願った通りに実現してくださる神様だ」という意味ではないと語ります。当然、私たちもそう解釈します。そのことを確認した上で、今日考えることは、このように解釈する場合、私たちの側は一体何をしているのかという事を明確化することです。★不慣れな言い方になりますが、前述のように私たちが解釈する場合、私たちの行っていることは、主イエスの語られたこの教えは「真の(正しい)命題か、それとも偽の(間違った)命題か」という問いに対して、私たちの側が、ある限定を設けた上で、主イエスが「真の命題」を語っているのだと判断していることです。★つまり、解釈する側が、直接的には語られていない「求める内容」や「求める動機」あるいは「求める熱心さ」というような、諸要素を加えることにより、限界を定めた上で、主イエスが「真の命題」を語っていると解釈しているわけです。★このことは、主イエスは、聞く側が「これはどういう意味だろう?」と自らよく考えて聞き取るという手続きを必要とする形で、教えを語られたのだと言えます。主イエスの言葉は、聞く側が考えること無く聞ける言葉ではないのです。

許されている識別


★今朝は「人をさばくな」という文脈の中に登場する次の言葉を考えます。「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。」★読んでわかりますように、「聖なるものを犬にやるな」という勧告と「真珠を豚に投げてやるな」という勧告とは同じ内容です。そして、ほとんどの場合「聖なるもの」とは「神の国の福音」のことであると解釈されます。★この言葉から直ぐに心に浮かぶのは「犬には聖なるものの価値が分からない」,「豚には真珠の価値は分からない」ということです。そうしますと「真の価値の分からない相手には、真の価値は伝わらない」となり、極論を言えば、永遠の伝達不可能性が言われている事になります。★このことは一体何を意味するのでしょうか。様々な声があがると思います。神学的に言えば「選び」という主題になると考えます。つまり究極の「判断=さばき」は主なる神様の御手の中にあるということです。この意味で、誤解を恐れずに言えば、「神の国の福音はいらない!」と拒絶する相手に対して、執拗に食い下がらなくても良いということです。★このことはもちろん、伝道活動の消極化を教える教えではありません。そうではなくて、具体例で言えば、「愛があるなら相手が信じるまで苦闘して伝道するのがキリスト者である。」というような論理に対する警鐘です。冷たく聞こえるかも知れませんが、「伝道する相手を識別しても良い」という視点です。しかし、この言葉があるからこそ、キリスト者は主体的な決断を持って「殉教を恐れずに伝道する道」が選び取れるのです。

目の中にチリを持つ者同士が共に生きるために


★今日はこの言葉です。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」★「さばく」という事は「判断する」という意味でした。この視点に立ちますと、主イエスの比喩が理解しやすくなります。また、今日は解釈の視点を変えて次のように聞き取ります。この比喩が明らかにしているのは、第一に、相手にも判断力があるということです。つまり、こちらの目にチリがあることが相手の目には見えているということです。目にチリがある人に治療は任せられないでしょう。明解です。★第二に、相手の目には、こちらの目の中にチリではなく梁が見えているということです。これは、一般的な例で言えば、「クリーンな政治を」と訴えている本人に多額の政治献金疑惑が存在することです。キリスト者で言えば、愛のない人が愛を教えている姿です。★それなら、「兄弟の目からちりを取りのけることをやめてしまえ」と考えたくなりますが、主イエスは「自分の目から梁を取りのけるがよい」と語られます。これを肯定的な比喩で言えば、人の語る言葉の信頼度は、その人の人格的成長の度合いに比例するということです。「兄弟の目からちりを取りのける」ことは必要な行為なのです。その働きを担うために、自分が成長させていただくという苦難の道を具体的に選び取り、労力をかけるかどうかが問われてくるのです。

今日一日を生きる


★今日は、ちょっと寄り道をしまして、宗教改革者の一人であるルターの著作から引用します。起点になっている言葉は、ルカによる福音書第23章42節に記されている次の言葉です。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください。」★たとえ、皇帝、王、教皇、司教、地上で最も権力ある者、学識あるすべてがキリストに背いた時にも、神の霊を持ち、この世に彼(キリスト)を告白するはずのひと握りの人々を神は手もとに置かれて、ご自分のキリスト教会を保たれるであろう。弟子たちも主キリストと親族であった人々も共々、告白することも信じることもせず、恐れて否定し、彼(キリスト)のことで腹を立て、そこから逃げ去っても、犯罪人や殺人犯は出てきて、このキリストを告白し、彼(キリスト)について説教し、人は何を彼(キリスト)からつかみ、彼(キリスト)をどのように信頼すべきかを他の人々に教えるに違いない。なぜなら、私たちの主なる神様は、たとえ絞首台の泥棒であろうと処刑車に付けられた殺人犯であろうと、彼を告白する人々をキリストのそばに置かれないはずはないからである。★この言葉には、ルター特有のレトリックがあります。ただそのレトリックの主旨を理解しつつ、表現を変えて適用しますと、今日私たちに聞こえてくるのは、主イエスの次の言葉です。「○○○○よ、あなたはわたしを愛するか」。この主イエスの御声に向き合い、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えて、今日一日を歩むことです。一日の苦労は、その日一日だけで十分なのですから、この告白を持って、今日一日を生きましょう。
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