許されている識別
23/08/09 00:00
★今朝は「人をさばくな」という文脈の中に登場する次の言葉を考えます。「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。」★読んでわかりますように、「聖なるものを犬にやるな」という勧告と「真珠を豚に投げてやるな」という勧告とは同じ内容です。そして、ほとんどの場合「聖なるもの」とは「神の国の福音」のことであると解釈されます。★この言葉から直ぐに心に浮かぶのは「犬には聖なるものの価値が分からない」,「豚には真珠の価値は分からない」ということです。そうしますと「真の価値の分からない相手には、真の価値は伝わらない」となり、極論を言えば、永遠の伝達不可能性が言われている事になります。★このことは一体何を意味するのでしょうか。様々な声があがると思います。神学的に言えば「選び」という主題になると考えます。つまり究極の「判断=さばき」は主なる神様の御手の中にあるということです。この意味で、誤解を恐れずに言えば、「神の国の福音はいらない!」と拒絶する相手に対して、執拗に食い下がらなくても良いということです。★このことはもちろん、伝道活動の消極化を教える教えではありません。そうではなくて、具体例で言えば、「愛があるなら相手が信じるまで苦闘して伝道するのがキリスト者である。」というような論理に対する警鐘です。冷たく聞こえるかも知れませんが、「伝道する相手を識別しても良い」という視点です。しかし、この言葉があるからこそ、キリスト者は主体的な決断を持って「殉教を恐れずに伝道する道」が選び取れるのです。