牧師のページ

新型コロナ感染症が与えた教会生活への変化をめぐって

★5月8日から新型コロナ感染症が第2類から第5類に変更になります。そのこともありキリスト教会では新型コロナ感染症が与えた教会生活への変化について検証しています。★検証テーマの一つが「主日礼拝とは何か」です。わたしたちの教会でも①主日礼拝が短縮式次第になりました。②聖餐式を中止しました。③(一時)声に出して賛美することを止めました。④礼拝のライブ配信が実施されました。⑤説教中心になりました。★私の誤解でなければ、ある検証の声の一つは、このような変更が「三密の回避」という行政からのお願いに呼応する「自粛」という形によって実施されたのではないかと問うています。★この検証に対する私の答えは次のようになります。事柄の中心点は何故自分たちは、このような礼拝形式にしたのかという自分たちの決断の理由が明確かどうかです。未知のウィルスが「ペスト」のような致死率の高さを持つかどうか不明な段階だったので、決断の核心は明確でした。自分が罹患した結果、隣人に伝染させ、その隣人が死に至るという結末を回避するためでした。★国による今回の判断は、新型コロナは「ペスト相当」ではなく「インフルエンザ相当」であるという判断です。この判断を信頼すれば、主日礼拝を通常の形式に戻すことは可能です。なぜなら、新型コロナ感染症が「ペスト」のような致死率の高さではなくなったという判断だからです。その背後には、特効薬といえるかどうかは分かりませんが治療薬が出てきたことがあります。★「自分と隣人の命」を守るために「自分で考えて自分で決める」ことは決して悪者ではありません。

世に認知される事よりも、知恵を持っている事実そのものが重要

★伝道の書第9章13節から17節に次の言葉があります。

[13]またわたしは日の下にこのような知恵の例を見た。これはわたしにとって大きな事である。
[14]ここに一つの小さい町があって、そこに住む人は少なかったが、大いなる王が攻めて来て、これを囲み、これに向かって大きな雲梯を建てた。
[15]しかし、町のうちにひとりの貧しい知恵のある人がいて、その知恵をもって町を救った。ところがだれひとり、その貧しい人を記憶する者がなかった。
[16]そこでわたしは言う、「知恵は力にまさる。しかしかの貧しい人の知恵は軽んぜられ、その言葉は聞かれなかった」。
[17]静かに聞かれる知者の言葉は、愚かな者の中のつかさたる者の叫びにまさる。

★コヘレトの語る「空」のトーンを「虚無的」と理解して14節から16節の箇所を読めば「貧しい人を記憶する者がなかった…貧しい人の知恵は軽んぜられ…」という言葉に、一種の無常観を聞き取るのではないかと思います。★しかし、興味深いことに、コヘレトは13節で「これはわたしにとって大きな事である」と語っていますし、17節でも「静かに聞かれる知者の言葉は…まさる」と語っています。つまりコヘレトは、私たちの現実に生起する出来事そのものである14節から16節の内容を13節と17節とで挟む形で語っているのです。★コヘレトが見ているのは世の評価ではなく、知恵を持つことそのものの価値だと私は思います。

人間は、創造の初めから、主の言葉を「聞いて、信じて」生きるのです

★復活の出来事を記したルカによる福音書第24章からです。マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤが墓に行ってみると墓の入り口の石がころがしてあり中にはいってみると、主イエスのからだが見当りませんでした。途方にくれている彼女たちに御使いが現れ語りました。あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。(主イェスが)まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか。★この御使いの言葉を聞いて「女たちはその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告しました」。しかし「使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった」のです。★ここで考えてみましょう。最終的に使徒たちは「何を」信じなかったのでしょうか?この問いに対して、つい「主イェスの復活を信じなかった」と答えてしまいます。しかし、よくよく考えれば、使徒たちは「主イェスのお話になったことを信じなかった」のです。★山上の変貌の時、雲の中から声がありました。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。創造の初めから、被造物である私たち人間は、主の言葉を聞いて信じることが求められているのです。

聖書は契約の書ですが「業の契約」と「恵みの契約」があります

★聖書の名称にある旧約や新約の「約」は「契約」の「約」です。ですから、それぞれの「契約」には契約を結ぶ当事者がいます。★今日考えるのは「アブラハム契約」です。これは「」なる神様と「アブラ(ハ)ム」との間で結ばれたものです。「アブラハム契約」の内容は一般に、創世記第12章1節3節と語られます。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。」や「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」です。★しかしその内容だけに限定さるわけではないのです。第12章から読み進みますとわかるのですが「アブラハム契約」は、その内容が漸進的(段階を追って次第に進む)に明らかにされる契約なのです。ですから、続く7節の「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」も「アブラハム契約」の内容です。それだけでなく、第15章や第17章をも包摂する契約なのです。★もう一つ、聖書の契約には「業の契約」と「恵みの契約」があります。「アブラハム契約」の内容を読むと分かりますように、その内容は「」なる神様の側の一方的な約束になっています。ですから「アブラハム契約」の内容は「」なる神様の側が主権的に働かれて必ず成就(現実化)するのです。このように「」なる神様の側が主権的に約束される契約を「恵みの契約」と呼ぶのです。
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