牧師のページ

主のみ前に「あるがまま」をさらけ出す─祈りの一つの形

★「わたしが悩みのなかから主を呼ぶと、主は答えて、わたしを広い所に置かれた。」(詩篇118:5)この詩篇の言葉に基づいて、ルターは次のように語っています。
◆「主を呼び求めた」とはこういうことである。あなたは、呼び求めることを学ばなければならない。あなたはそれを聞くのである。◆一人でじっと座りこんだり、ベンチに横たわったりして、首をうなだれ、頭をふり、あなたの思いがあなたを噛み付き、食い尽すままに思いわずらい、どうやってそれを追い払うのかばかりを考え、どんなにあなたがまずいことになっているか、どんなにそれがつらいことで、またどんなに自分はみじめな人間だろう、ということのほかには目に入らなくなってはだめである。◆そうしていないで元気を出しなさい。腐っているあなた。◆ひざまずいて、目と両手を天に向け、詩編か主の祈りを唱え、あなたの悩みを泣きながら神の前に詳しく述べて、嘆き、呼び求めなさい。あなたが悩みを自分にしょいこんで、それを自身でもち続け、自分をかじり、責めさいなむがままにして、あなたがーつの不幸を二にも十にも百にもしてしまわずに、神の前にそれをお見せすることを、神は望んでおられるのである。★この文章が書物からの抜粋であるため「それを聞くのである」という言葉の意味が不明ですが、全体として聴き取れば、事あるごとにルターが「主を呼んでいた」と推察することが出来ます。★「あるがまま」という言葉がキリスト教会に広がりましたが、創造主の前に「あるがまま」が知られている以上、創造主の前に「あるがまま」を打ち明ければよいのです。それ自体が祈りとなります。

キリスト者は信仰によって人生の諸問題に対する「統一性」の視点を得ている

★「物事を立体的に見るためには複数の視野が必要である」と良く言われます。これは数学的な視点から転用して考えるとよくわかります。一次元が直線であり、二次元で平面となり、三次元が立体です。★これを言い換えれば「多様性」となります。この「多様性」を「人生」に当てはめれば、人間の「人生」は、一面的な要素だけで成り立っているわけではなく多様な面があるわけです。★しかし、ここからがちょっと分かりにくいのですが、語りますと、多様な人生の局面を持ちつつ「私」という存在は「一人(一つ)である」という点です。つまり、「私」という人間は「多様な局面」を持ちつつも「一人(一つ)である」なのです。これを「多様性」に対して「統一性」と言います。★この視点を受け入れていただきますと、私たちの人生に生じてくる諸問題は、「より私の多様性」に関係しているのか、それとも「より私の統一性」に関係しているのか、となります。★「病気」を例に上げますと、「病気」そのものは、人間の「肉体性」に関係していますから、第一義的には「より私の多様性」に関係しています。ですが「病気」のために「労働できない」というように私の持つ多様な他の局面に影響が波及して行きます。その結果「私」という「統一性」が危機に瀕することになります。★この危機の中で、私たちがどう行動するのか?この時「病気を治す(多様性の課題)」ということに焦点を当てることも出来ますし、そもそも「私」が「生きている」ことに「どういう意味があるのか?(統一性の課題)」と動き出すことも出来ます。★キリスト者が幸いなのは、信仰によって「私は創造主により“神のかたちに”創造された存在である」という「統一性」の答えを得ていることです。

人生が行き詰まる時に「聞く耳を持っていますか?」という問い掛けがある

★主イェスは「種まきの譬え」を語られた後、弟子達と次のような対話をします。
[09]そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」。
[10]イエスがひとりになられた時、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらの譬について尋ねた。[11]そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。[12]それは『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』ためである」。
★この主イェスの最後の言葉はイザヤ書第6章9,10節からの引用です。そこでイザヤ書本文を調べてみますと、この言葉は、イスラエルの民に向けて主の言葉を語るように召された預言者イザヤに対して主なる神様が語られた言葉でした。当然のことですが、イザヤは主なる神様に問うています。「いつまでですか?」★この問いに対する答えは、その内容から「イスラエルの民が(アッシリヤやバビロンに)捕囚されるまで」と読むことが出来ます。★そうしますと、元々の文脈を無視して、主イェスがこの言葉を引用し語られたとは解釈しません。ですから、弟子達以外の人達に対して、主イェスの語られた言葉の意味が未来永劫閉ざされてしまうわけではないと解釈できます。★それでは「いつまで」なのでしょうか?この問いに対してもイザヤ書の文脈が役立ちます。敢えて個人的な言い方をしますと、「神の言葉無しで歩む、その人の人生が行き詰まる時まで」であります。★ここから、一面厳しいことですが「人生が行き詰まる」ことは、創造主と神の言葉に立ち返る時なのだ、と言えるのです。

キリスト者は、肉との戦いつつ「御霊に導かれる歩み」を生きるのである

★パウロによってエペソ人への手紙第5章1節、2節にこう書き記されています。
[01]こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。

[02]また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。

★丁寧に聴き取ってみましょう。1節は「神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい」ですが、その意味する事は「神に愛されている子供として、その神の愛にならう者になりなさい」と読み取れます。★2節はギリシャ語本文の私訳で「愛のうちを歩きなさい」の後「即ち、丁度、キリストがあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたように」となり、「神の愛」とは「キリストが自分に示してくれた愛」の事となります。★以上から、説明的な表現になりますが、「キリスト者は、キリストによる贖罪愛の内を歩みつつ、キリストの示した贖罪愛の形にならって、歩みなさい」となります。★そうしますと、キリスト者は「キリストによる贖罪愛の内を歩みつつ」「キリストにならう歩みをうる」ことになります。★続く3節以降を読むと「不品行といろいろな汚れや貪欲など…口にすることさえしてはならない」、「卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい」と勧告されています。★当然の帰結に至りました。別の勧告で言えば「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。」となります。

主イェスの十字架刑の場に出現した驚くべきコントラスト

★人生の最悪の最後の時に、主イェスの神性に触れた人物の出来事をルカが記してくれています。★[39]十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。[40]もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。[41]お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。[42]そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください。」[43]イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」★「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください。」この言葉を基にルターが次のように語っています。☆「たとえ、皇帝、王、教皇、司教、地上で最も権力ある者、学識ある者すべてがキリストに背いた時にも、神の霊を持ち、この世に彼を告白するはずのひと握りの人々を神は手もとに置かれて、ご自分のキリスト教会を保たれるであろう。☆弟子たちも主キリストと親族であった人々も共々、告白することも、信じることもせず、恐れて否定し、彼のことで腹を立て、そこから逃げ去っても、犯罪人や殺人犯は出てきて、このキリストを告白し、彼(キリスト)について説教し、人は何を彼(キリスト)からつかみ、彼(キリスト)をどのように信頼すべきかを他の人々に教えるにちがいない。☆なぜなら、私たちの主なる神は、たとえ絞首台の泥棒であろうと処刑車に付けられた殺人犯であろうと、彼を告白する人々をキリストのそばに置かれないはずはないからである。★主なる神様の主権性を考えれば、これはいつの時代にも起きる事なのでしょう
RapidWeaver Icon

Made in RapidWeaver