January 2019
悪魔と戦うのではなく恵みに立つ歩みを継続する
27/01/19 00:00
★自分の人生の中に、いわゆる「悪いこと」が起きた時、私たちは「自分の歩みをチェックするように」という言葉に向かいます。つまり、「悪いこと」を引き起こした原因が自分自身にあるという考え方です。これは健康的な見方であり否定されるべきものではありません。★その結果、何がしかの原因に思い至ったとします。その時に続けて聞きたいルターの言葉があります。ルターの言いたいことを補うために多少言葉を加えます。☆悪魔は、しばしばわずかな罪をつかまえる。そうやって悪魔は、あなたが生涯をかけてしてきたよい行いをすべて覆い隠してしまうので、あなたは自分の内に、その同じ罪しか見ることができなくなる。しかし、このようなことは、あなたが悪魔との議論にはまってしまったときに起るのである。☆だから、キリスト者は、このような「悪を及ぼす思いを軽蔑するようにして、まるごと克服しようとする」のはやめなさい。なぜなら、悪魔は傲慢な霊であるから、キリスト者から発せられる軽蔑には耐えられず、もっと執拗に迫ってくるからである。☆これに対する対抗策はただ一つである。キリスト者がまず「私はキリストを通して、主なる神様と既に和解を得ている」という信仰に立つのだ。その上で、聖霊と熱心な祈りの鍛練と、また、聖書を誠実に読むことが必要である。なぜなら、悪い思いを克服して心から追い出すのは、人にできる行いではないからである。★ルターのこの言葉は、いい加減な悔い改めを推奨する言葉ではありません。そうではなくて、赦された罪人に過ぎないキリスト者に対して、恵みの持つ確実さを日々確認し続ける歩みを積み重ねることを推奨しているのです。
書き加えても取り除いてもいけない神の言葉
13/01/19 00:00
★命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない(マタイ7:14)。マタイによる福音書に記された主イェスの言葉です。ルターが前半の言葉を受けて、次のように語っています。★キリスト者とは、狭い山道を行くような、いや、剃刀(ひげそり)の刃の上を行くような厳しい人生を送るものである。☆この世には、私たちの周りに大きな口をあいて絶え間なく噛みつこうとしている悪魔がいて、焦燥や絶望や、神に対する不平ヘと私たちを陥れようとする。☆さらに、この世は私たちに敵対して立ち、私たちが天国ヘ行こうとするのを妨げる。私たちは肉を肩にしょいこんでいるので、四方八方から攻め立てられているのである。☆また、この道自体が非常に狭いから、もし危険や障害物がなかったとしても、どっちみち苦渋に満ちているのである。しかし、私たちはそこを何とかして通り抜けなければならない。さもなければ、この世と悪魔の仲間にされてしまうからである。☆それゆえにこう考え、心を決めるがよい。キリスト者でありたいのならば、狭い道は狭いままにしておきなさい。何をしても別のようにはならないのだがら、道を広げようなどとはしないことだ。★「道を広げようなどとはしないことだ」というルターの言葉を受けて後半の言葉を考えます。そうしますと「それを見いだす者が少ない」からといって、少しでも「見いだしやすい」ように「命にいたる門や道」に手を加えたくなるかもしれませんが、それは絶対にしてはならないことなのです。
「究極、自分の主人は誰なのか」ということ
06/01/19 00:00
★新年礼拝にあたり持ち出しました御言葉は、多くの知識人たちから批判を受ける次の言葉です。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。主イェスがこのようにお語りになったからと言って、主イェスが「パン」の重要性を否定しておられるわけではありません。言葉を選ぶのは大変難しいことですが、敢て一言で言えば「究極、自分の主は誰なのか」ということです。★この視点を明確に伝えている主イェスの言葉がこれです。「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」同じ言葉を繰り返しますが、主イェスがこのようにお語りになったからと言って、主イェスが「富」の重要性を否定しておられるわけではありません。こちらの言葉に明確に表れていますように、主イェスが問いかけは、「究極、あなたの主は誰なのか?」ということです。★そして、この問いかけは、赦された罪人に過ぎない私たちが、日々の生活の中で「折々に問いかけられる問いかけだ」ということを越えて、恐らく、「自分の命、自分の人生、自分という存在」にとって「重要な選択を求められる時」に心の中に浮上してくる問いかけなのではないかと思わされます。★「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」2019年はキリスト者個人としてだけではなく、キリスト教会として、究極、この御言葉に立つかどうかを問われる時代になるかもしれません。